賢護が仏に申し上げた。「世尊よ、衆生は識の存在を知っておりますが、宝が箱に閉じ込められたように、その実体を明らかに知ることはできません。世尊よ、この識がどのような形状をなし、なぜ識と呼ばれるのかを存じません。衆生が死に臨む時、手足は乱れ動き、目の色は変わり、制御が利かなくなります。諸根は滅び、諸大は離散し、識は身体を去ってどこへ赴くのでしょうか。その自性は如何なるものか、どのような色相をなし、いかにしてこの身を捨て離れ、新たに他の身を受けるのでしょうか」
仏法を学ぶ者は多いものの、真に善業の大きい者は極めて稀で、八割以上、いやそれ以上の者が三悪道に堕ちます。今生に仏法を学んだとしても、三悪道を免れることはできません。その者が今生に作った善業は極めて小さく、過去世と今生の悪業は多く重いからです。例えば貪りの心、物惜しみの心が強い者は必ず餓鬼道に生まれます。また瞋恚と愚痴の業が重い者は、前者は地獄で報いを受け、後者は畜生として報いを受けます。仏法を学ぶ者の中でも、これらの悪業煩悩はほとんど除かれず鎮圧もされていません。貪瞋痴の煩悩は三果を証得して初めて断じ始め、初果を証得した段階ではまだ断じ切れません。しかし初果を証得すれば三縛結が断たれ、三悪道の業に縛られることはなくなり、三悪道に生まれることはなくなります。
或る者は言うかもしれません。経典に五戒を守れば人間界に生まれると説かれているが、自分は五戒を守っているから必ず人間界に生まれると。しかしこれは必ずしもそうとは限りません。第一に、自らが正しく五戒を守れているか判断できないため、第二に仮に本当に五戒を守り通したとしても、前世の悪因縁が丁度熟すれば、その者は悪因縁に従って三悪道に生死流転し、選択の余地がありません。五戒を守る功徳は、善縁が熟して初めて善報を受けるのです。天人も五戒を守ります。欲界天・色界天・無色界天の天人たちは皆五戒を犯さず、何ら悪業を作りませんが、彼らの多くは死後直ちに地獄に堕ちます。これは地獄の悪因縁が熟したことを示し、避けることができないのです。天人の福報が尽きれば地獄に堕ちます。無始劫以来の悪業の種子が依然として存在し、善業の縁が小さく未熟で勢力が足りなければ、依然として悪道に堕ちるのです。衆生が臨終にどこへ生まれるかは、どの引業の勢力が強く、どの業縁が先に熟するかによって決まります。
或る者は悪業を作りながらも、誠心誠意清浄な大願を発すれば、臨終時に善の願力が悪業の業力を上回り、この大願力によって善道に生まれることもあります。よって仏法を学ぶ者にとって初果の証得は焦眉の急です。もし今生で初果を証得し、来世で再び初果を証得、あるいは二果を証得すれば、生生世世にわたって三悪道の苦しみを受けることはありません。その後さらに三果・四果を証得し煩悩を断じれば、心は解脱し慧は解脱します。三果とは貪欲と瞋恚という二つの煩悩を断じるもので、初禅定に至る修行が必要です。初禅を証得するのは多少困難ですが、初禅を得た後は煩悩を断ずることはさほど難しくありません。
しかし多くの者が「貪欲を断じた」と自称し、人間界の法に貪らず、世の事柄に一切興味がないように感じていますが、実際には毫末も断じておらず、それは単に抑圧した状態に過ぎません。我見を断じておらず、初禅も証得せず、五蓋も修めていない者が、貪欲の煩悩を断じることは不可能です。また表面的に淫欲の行いがなくなった者も、淫欲煩悩を断じたと称しますが、それは単に表面を抑え込んだに過ぎず、心理的には断じておらず、中有において依然として貪欲によって胎を受けることになります。男女の欲によって胎を受けて次の世の色身を得る限り、貪欲は断じられていないのです。真に貪欲を断じた者は再び胎を受けることはなく、初禅を証得した菩薩たちは例外です。
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