衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月31日    水曜日     第3開示 合計977開示

《大乗顕識経》解説

原文:賢護菩薩が仏に申し上げました。「世尊よ、衆生は識があることを知ってはおりますが、宝が箱の中に閉じ込められたまま、現れず知られないのと同じです。世尊よ、この識がどのような形状をしているのか、なぜ識と呼ばれるのかを知りません。衆生が死ぬ時、手足が乱れ動き、目の色が変化し、制御できず自由を失います。諸根は滅び、諸大は分離します。識は身体から離れ、どこへ去るのでしょうか。自性はどのようなもので、どのような色相をしているのでしょうか。どうしてこの身体を捨て去り、再び他の身体を受けるのでしょうか。」

初禅を発起する際の主な障害は五蓋、すなわち貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑です。特に五蓋の中の貪欲蓋は、人間界や欲界天への欲望が強いと、色界の初禅定を生じることはできません。人間界と欲界天への欲求が降伏されて初めて、色界の初禅定が発起します。色界の初禅定を発起するには、男女の欲や飲食の欲など様々な欲望を降伏させる必要があります。もし衣食住にこだわり、色声香味触を好むならば、初禅定は成就せず、生活環境を気にしすぎても禅定は得られません。心からどんな生活環境でも無頓着で、良くても悪くても構わず、良いものに貪らず、悪いものに嫌悪せず、環境に対して心を動かさないようになって初めて禅定が得られます。欲求の心が生じた瞬間に定は失われ、真に無頓着であることが心を起こさない状態です。普段の生活で何事にも無頓着で気にせず、環境の良し悪しを気にしない、そう真に実践できて初めて禅定が発起します。もし食べ物にこだわり、栄養や色香味を気にするならば、初禅は発起せず、色界定に入ることはできません。

ちょうど証果や明心を悟った直後、禅定が発起せず深まらない場合、この時期を過ぎると、その後は初禅を発起させることが難しくなります。我見を断ったこの時に覚明が現れ、内心に喜びが生じたならば、禅定の修習に専念すべきです。もし覚明がなく定力が浅ければ、その後は初禅定を望むことはできず、現れにくくなります。特に在家者は日常生活との結びつきが強すぎるため、初禅を発起させるのはより困難であり、出家者の方が相対的に容易です。世俗のものから離れているからです。在家者が仏法を修習するのは非常に困難で、生活の中には心を動かす出来事が至る所にあり、禅定を得るのは容易ではありません。

かつての外道は出家後、初禅どころか四禅や四空定を証得した者もおり、禅定の中で最も高い非想非非想処定さえも証得できました。彼らは深山に入り禅定の修習に専念し、真に世の中の一切に無欲であることを実践できたのです。しかし現代の私たちは未到地定や欲界定を修得するのもこれほど難しく、この点から言えば、私たちは今や外道にすら及ばないのです。

現代の学仏者の根機が、どうして外道と比べられようか、ましてや外道を軽視するなどもってのほかです。外道は四禅八定を修め、決して「放下放下」とスローガンを叫びはしませんが、五欲六塵を真に放下しており、実修実証で禅定を得た者です。一方、学仏者は終日スローガンを叫びながら、生涯にわたり世間のものを少しも放棄できていません。彼らが外道法を修めたのは前世の業縁が良くなかったためであり、例えば前世でも禅定を修めたかもしれませんが、それは外道法であり、三宝に帰依せず戒も受けなかったため、今世で仏の正法に遇えなかったのです。ですから三宝への帰依は重要であり、今世三宝に帰依すれば来世もなお三宝に帰依し、外道法の中で修行することはなくなります。仏法を学ぶにあたり五戒を受けず三宝に帰依しないのは絶対に許されず、そうすると根機が不安定で後世外道に流れやすくなります。今世禅定を修めなければ、来世も禅定の修証とは縁遠く、依然として修定の門をくぐれず、仏法を証得することはできません。ですから仏が私たちにどの法を修めよと言われたならばその法を修め、自ら創作してはならず、仏がどのように修めよと言われたならばそのように修め、仏が説かれたことはすべて聖言量であり、私たちは100%従うことで初めて仏法上の利益を得られるのです。

賢護菩薩が仏に問うた「自性はどのようなものか? どのような色相をしているのか? どうしてこの身体を捨て去り、再び他の身体を受けるのか?」という問いにおける自性とは、阿頼耶識、すなわち第八識を指します。これには自らの体性があり、他の法には体性がなく、すべてこれが変現したものです。阿頼耶識の自性はどのようなもので、どのような色相をしているのか、命終の際に阿頼耶識はどのように現在の色身を捨て去り、再び他の色身を受けるのか? どうして再び他の身体を変生するのか? 賢護菩薩は衆生の輪廻における核心的な問題を問うたのです。ここでの「受」とは、阿頼耶識が別の身体を執持しようとし、死にゆくこの身体を捨て去って、別の色身を変現し、執持し、受け入れることを指します。

——生如法師の開示
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