賢護が仏に申し上げた。「世尊よ、衆生は識があることを知っておりますが、宝が箱に閉じ込められたように、顕現せず理解できません。世尊よ、この識がどのような形状をなし、なぜ識と呼ばれるのか分かりません。衆生が生死を迎える時、手足は乱れ動き、目の色は変わり、制御できなくなります。諸根は滅び、諸大は離散し、識は身を遷してどこへ去るのでしょうか。自性はどのようなもので、どのような色相をなし、どうしてこの身を捨てて他の身を受けるのでしょうか。」
初禅を発起する障礙となる主因は五蓋、すなわち貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑です。特に五蓋中の貪欲蓋は、人間界と欲界天への欲望が強いと色界初禅定を生起できません。人間界と欲界天への欲求を降伏させて初めて色界初禅定が発起します。色界初禅定を発起するには男女欲や飲食欲など様々な欲望を制する必要があります。衣食住に拘ったり、色声香味触を好む者が初禅定を成就することはできず、生活環境に執着する者も禅定を得られません。真にどのような環境にも無執着で、善悪に囚われず、良いものに貪らず、悪いものに逆らわず、環境に対し心行を起こさぬ者こそ禅定を得られます。欲求の念が生じれば定は失われ、真に無所謂こそが無念です。日常において全てに無執着で、環境の良し悪しを気にせず、これを真に実践して初めて禅定が発起します。飲食に拘り栄養や色香味を求める者に初禅は発起せず、色界定に入ることはできません。
証果と明心を直後に得た際、禅定が発起せず深まらない場合、この時期を過ぎれば初禅を発起する機会は失われます。我見を断じた時に現れる覚明と内心の喜悦を捉え、禅定修習に励むべきです。覚明がなく定力が浅ければ、後に初禅を望むことは困難です。特に在家者は日常生活と密接なため初禅発起が難しく、出家者の方が幾分容易です。在家者の仏法修習は容易ではなく、日常に心を動かす事象が多く禅定修得は困難です。
過去の外道出家者には初禅どころか四禅・四空定を証得した者もおり、最高の非想非非想処定さえ証し得ました。彼らは深山で禅定を専修し、真に世間への執着を断じました。現代では未到地定・欲界定さえ困難な点で、我々は外道にすら及ばないと言えます。
現代の学仏者の根基は外道と比べるべくもなく、彼らを軽視すべきではありません。外道は四禅八定を修し、放下を唱えずとも五欲六塵を実践的に捨てました。一方学仏者は放下を唱えつつ世間を捨てられません。外道修行者は前世の業縁故に仏法に遇わず、今世三宝に帰依しなければ来世も外道に流転します。五戒不受・三宝不帰依では根基不安定で後世外道に堕します。今世禅定を修さねば来世も禅定修証に縁薄く、仏法証得の門戸に入れません。故に仏の教えに従い聖言量を100%遵奉すべきです。
賢護菩薩の「自性は如何、作何色相、云何捨離此身更受余身」との問いにおける自性とは阿頼耶識(第八識)を指します。他の法は自性なく、全て阿頼耶識の顕現です。阿頼耶識の自性と色相、命終時に如何に現色身を捨て新たな色身を受けるか、これが衆生輪廻の核心です。この「受」とは阿頼耶識が新たな身体を執持し、旧身を捨てて新たな色身を顕現・執持・接受することを意味します。
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