衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年12月07日    土曜日     第1開示 合計2073開示

縁起法は信頼できない法

依他起とは、他の法・別の法に依拠してはじめて生起する法のことです。他と別は、法が出生する縁であり、したがって依他起とは縁起の法、因縁によって生じた法です。依拠する縁の法を離れれば存在せず、縁が変化すれば法もそれに伴って変化し、縁が滅すれば法もそれに伴って滅していきます。だから依他起の縁生の法は、幻化して実体のない法であり、虚妄の法であり、空であり、生滅変異するものなのです。

縁起の法には五根、六塵、六識が含まれます。眼・耳・鼻・舌・身は縁起の法であり、多くの縁に依拠してはじめて出生し、存在し、発展変異するのであって、頼りにならない法です。それゆえ、私たちはそれに完全に依拠することはできず、いつまでも依拠し続けることはできません。修行がある段階に達して、完全に依拠しなくなったとき、心が空になれば、大解脱するのです。六塵は縁起の法であり、多くの縁に依拠して出生し、存在し、発展変異するのであり、それゆえ六塵は頼りにならず、依拠すべきものではありません。私たちは六塵への依拠を次第に脱し、六塵への貪愛と執著を減らしていくべきです。修行がある段階に達して、完全に六塵に依拠しなくなったとき、心が空になれば、それが大解脱です。では、私たちはどの法に依拠することによって六塵に依拠するのでしょうか。六塵を執取するには六識が必要であり、六識が六塵に対して分別を生じた後、六塵に依拠するようになるのです。どの法が六塵を執取するために六識を必要とするのでしょうか。意根が六塵を執取し、それから六識を出生させ、六識によって六塵を取り、意根がさらに六塵を執し、さらに六識の機能作用をも執するのです。こうして生死は循環し往復して絶えることがありません。執する心は意根であり、六識という道具を使って取るのですが、実際に取っているのはやはり意根なのです。六識もまた縁起の法であり、多くの縁に依拠して出生し、存在し、発展変異するのであって、頼りにならない法、依拠すべきでない法です。それゆえ、私たちは六識から次第に遠ざかり、六識への依拠を減らしていくべきです。修行がある段階に達して、完全に六識に依拠しなくなったとき、心は空になり、私たちは大解脱を得るのです。

このすべての真理は、誰のために語られているのでしょうか。私たち自身のために語られているのです。私たちとは誰のことか、自分とは誰のことか、いずれも意根のことです。六識は伝達の兵であり、これらの情報を意根に伝えて了知させる役割を担い、どう進むかどう退くかは意根が主となって決断します。もし情報が六識のところにとどまり、主人である意根のところまで伝わらなければ、その情報には何の役にも立たず、主人の心意と決断に影響を与え、変えることができず、すべては依然として元のままで、生死は循環して絶えることがありません。

では、どうすればこれらの真理と情報を意根のところまで伝えることができるのでしょうか。定を修じょうすることです。禅定の中で思惟観行 (vipaśyanā-caryā) するのです。禅定が深いほど、伝達の効果は良くなり、意根ほどこれらの情報を吸収し消化できるようになり、心意を変えていけるのです。そうすれば、すべての無明と執取は消し尽くされ、一切の法から解脱し、生死の苦がなくなります。

——生如法師の開示
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