依他起とは、他法や別法に依って初めて生起する法である。「他」と「別」とは、法が生じる縁を指す。故に依他起は縁起の法であり、因縁によって生じた法である。依るべき縁法を離れれば存在せず、縁が変化すれば法もまた変化に従い、縁が滅すれば法もまた滅び去る。よって依他起の縁生法は幻化して実体なき法、虚妄の法、空なるもの、生滅変異するものである。
縁起法は五根・六塵・六識を含む。眼耳鼻舌身は縁起法であり、無数の縁に依存して初めて生じ存在し発展変異する。これらは不確かな法である故、我々は完全に依存すべきではなく、常に頼るべきではない。修行が一定の段階に至り全く依存しなくなるとき、心が空となり大解脱を得る。六塵は縁起法であり、無数の縁に依って生じ存在し発展変異する。故に六塵は不確かで依存すべからざるものである。我々は漸次六塵への依存を脱し、六塵への貪愛と執着を減じ、修行が一定の段階に至り全く依存しなくなるとき、心が空となり大解脱となる。どのような法に依存すれば六塵に依ることができるのか。六塵を執取するには六識を要し、六識が六塵を分別した後に六塵への依存が生じる。いかなる法が六塵を執取するに六識を要するのか。意根が六塵を執取し、その後六識を生じて六識を用いて六塵を取る。意根は再び六塵を執り、更に六識の機能作用を執る。かくして生死が循環して止むことなし。執る心は意根であり、六識を道具として用いるが、実際に取るのは依然として意根である。六識もまた縁起法であり、無数の縁に依って生じ存在し発展変異する。これらは不確かで依存すべからざる法である。故に我々は漸次六識から遠離し、六識への依存を減ずべきである。修行が一定の段階に至り全く依存しなくなるとき、心が空となり大解脱を得る。
これら一切の真理は誰に向けて説かれたのか。我々自身に向けて説かれたのである。「我々」とは誰を指すか。「自身」とは誰を指すか。全て意根を指す。六識は伝達兵であり、これらの情報を意根に伝えて了知せしめる。何れに従うかは意根が主となって決定する。もしこれらの情報が六識に留まり、主人である意根に伝達されなければ、これらの情報は何の役にも立たず、主人の心意と抉擇に影響を与えず、一切は依然として故我のままで生死が循環して止まない。
如何にしてこれらの真理と情報を意根に伝達させるか。禅定を修め、禅定の中で思惟観行する。禅定が深まるほど伝達効果は増し、意根はこれらの情報を吸収消化し、心意を改変する。かくして一切の無明執取は消失し、一切の法から解脱し、生死の苦は無くなるのである。
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