意識によって理解された真理と、禅定の中で意根が観行によって証得した真理との間には、天と地ほどの隔たりがあります。前者は大いに語り、著作を山積みにし、弟子を群れなすことができたとしても、功徳の受用がなく、実用価値に欠け、無明を破ることができず、生死を解決せず、煩悩の束縛を解くことができません。後者は、多くを語らず、説法や文章を書かず、一人の弟子も持たないかもしれませんが、心は解脱しており、生死を了えることが期待され、その影響力と感化力は非常に大きく、磁場は強烈で、摂受力も強く、一言が重く、形のない中で衆生を度し、摂受しています。ただ無心であるだけです。衆生は形のない中で、威厳と威徳を感知し、意図せずして感化を受けるのです。
情報に触れ、真理に触れたとき、六識が理解できず、何を言っているのか分からなければ、どうして真理や情報を意根に効果的かつ完全に伝えることができるでしょうか。禅定がなければ、六識はどうやって真理や情報を意根に引き渡すのでしょうか。禅定がなければ、意根はどうやってこれらの真理や情報を吸収し消化するのでしょうか。意根が吸収消化できなければ、どうして無明を消滅させ、心を明るく変えることができるでしょうか。意根が明らかでなければ、どうして執着を捨てて解脱を得ることができるでしょうか。
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