衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年10月31日    水曜日     第5 回の開示 合計979回の開示

無我を証得できない原因

この色身が私ではないと知りながらも、我見を断つことができないのはなぜでしょうか。これは智慧の問題です。一つには意識心に無我の智慧がなく、観行と思惟の方法を知らず、証拠資料を収集することを理解せず、意根を熏染することができないためです。禅定力が不足しているため、専心して思惟することができず、意根に意識の観念を受け入れさせることができません。意根は意識が収集した証拠や資料を専心して考量することができず、結局我見を断つことができないのです。

意根が無始劫以来持つ観念は最も転換し難いものです。時に意識が色身が生滅して実体のないものであり、私ではあり得ないと明らかに知っていても、意根はこの虚妄を認めることができず、ここに停滞してしまうのです。多くの場合、意識が提示する証拠も確実ではありません。例えば「1足す1が2になる」という命題が正しいと知っていても、なぜそれが正しいのかは分かりません。もし意識すら理解していなければ、意根が知ることはさらに不可能です。

色身の無我を観行するには、様々な角度から観察できます。例えば手を一本失った場合、その手が私でしょうか。そうではありません。手がなくなっても私は存在します。もし手が私なら、私は消滅するはずですが、そうではない。目を抉り取っても私は依然として存在します。耳を切り落としても私は死なずに存在し続けます。頭を切り落とせば私は死にますが、もし本当に私が消滅するなら、来世の私は存在し得ません。このように色身も私ではないのです。昨日の私は本当に私でしょうか。もしそうなら、昨日の私はどこへ消えたのでしょう。これらの疑問を一つの念に凝縮し、心に懸けておけば、いつの日か意根は必ず悟ります。「ああ、そうだったのか。色身五蘊は全て私ではないのだ」と。そうして我見は断たれるのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

三昧の特徴

次の記事 次の記事

意根の我見と我執の断除

ページのトップへ戻る