衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月01日    木曜日     第1 回の開示 合計980回の開示

意根の我見と我執の断除

意根には執着性があり、人我と法我を執着するが、意根に我性はあるのでしょうか。意根は無始劫以来、我性を有してまいりました。これを倶生我執と呼び、人我を執着し、五陰身を我とし、六識を我とし、六識の了別を自らの了別と執着し、六識の機能体性も我及び我が所有するものとし、さらに第八識の機能体性までも我及び我が所有するものと執着してまいりました。その遍計所執性によって、あらゆるものを執着する性質が決定されており、中でも人我執は意根の我執であり、意根の我であります。初地菩薩に至り、意根が一部の無明(例えば一念無明)を滅し、無漏に達すると、次第に一切法における無我性を思索し始めます。例えば、一切法が第八識によって現じ変じられることを知る菩薩は、この色塵、あの色塵は全て第八識が四大種子を輸送して変現したものであり、さらに第八識が刹那刹那に四大種子を輸送し続け、色法の存在を変化維持しているため、色法は我ではないと思考します。同時に意根は、色塵を了別する自らの機能体性も第八識が識種子を輸送して生じさせたものであることを知り、これも我ではなく、全て第八識の機能であると悟ります。色は第八識が変現したもの、私の五根・六根は第八識が変現したもの、私に対応する六塵は第八識が変現したもの、私が了別する六識心、さらには自らの識心さえも第八識が変現したものであり、私が接触し了知する一切法は全て第八識が種子を輸出し刹那刹那に変現させたものであるため、一切法の中に全く我は存在しないと悟ります。菩薩は次第に一切法において無我性を思索し、無生法忍の智慧がますます増広し、六七識の智慧性が広大になると、意根の大智慧は一切法が確かに無我であることを知り、心は一切法に平等となります。識を転じて智と成した後、意根にはますます深い無我の智慧が生じ、心が無漏となるにつれ智慧性は広大になります。菩薩はさらに思量を続けます。音声を聞くこの一法、能聞と所聞は全て第八識が変現したものであり、これら一切の機能体性は第八識のもので、全ての音声は第八識が変現し執持しているもので、どこに私が存在するのでしょうか。このように思索を重ね、法我執を一点一点断除してまいります。香りを嗅ぐ時、食事をする時、六根が六塵に対する時、日常生活の中で、あらゆる法において思量します。これらの法は全て第八識が現起したもので、その中に私の関与する余地はなく、私自身さえ第八識が変現したもので、全て私ではありません。それゆえ私が六塵に接触するこれらの機能体性も私ではなく、全て第八識が変現したもので、真実なるものは一つもありません。このようにして次第に法我執を断除し、智慧がますます増広し、法我執を断じ尽くした時、仏と成るのであります。

——生如法師の開示
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