衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年12月27日    金曜日     第1 回の開示 合計2101回の開示

五遍行心所法の運行過程

五遍行心所法は当初、作意・触・受・想の順序で運行しましたが、後には必ずしもそうではなくなり、運行の順序が逆転することもありました。思心所がいつ現れるかは定まらず、意根がいつ択択を行うかも不定です。中間過程で数多くの思択が生じる可能性があり、最初はある部分に対する小さな決定であったものが、最終的に総合的な最終決定へと至るのです。中間の抉択は究竟的なものではありませんが、最終決定に相応の影響を及ぼします。例えば一口ごとに次の食事を続けるか、何をどれだけ食べるかを思心所が決定し、食事全体が終わった時点で「もう食べ終わった」という総合的な決定を下すことで、五陰身は食器を下ろします。時に自発的に飲食を止めようとしても他者に勧められると、思心所は得失を衡量し、迅速に飲食内容や胃の感覚に対する作意・触・受・想を行い、最終的に飲食中止を決定するのです。

作意は識心活動の始発であり、一切法の生住異滅の端緒です。作意なくして法に触れることなく、触れずして受容・感受なく、受容なくして了知なく、了知なくして思量・抉択なく、抉択なくして身口意の造作は生じません。故に作意は重要であり、思はさらに重要で、その作用は最も大きく、過程も最も長くなり得ます。ただし受・想・思が生じる時には必ず触が存在し、触なくして受想思は生じないため、触もまた重要です。受想は思の前提と基盤であり、これがなければ後続の身口意造作もなく、識心は寂静で清浄となります。大修行者は法に対し微細で刹那的な作意のみを起こし、触れても覚受を生起させず、了知を求めないため、次の行為造作が生じず、心も事象も存在しなくなるのです。

法を運行する際、作意は常に存在します。注意深く観察する時、六塵は単独の法塵へと転換し、法の重点が移行するにつれて新たな作意が生起します。作意から想に至る初期過程では、五心所の運行が極めて短暫かつ迅速で、刹那的に思に到達します。了知が不明瞭なため思量も不分明となり、再び作意・触・受・想を繰り返すことになります。この過程を詳細に観察することは困難を極め、大まかな観察でさえ相当の難事です。しかし自身や他者の身行・語行・思想・觀念を観察することで、その一部を照合して知ることが可能となります。

——生如法師の開示
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