それぞれの法には異なる次元の意味があり、智慧が異なる人々は当然ながら異なる次元の理解を持つことになります。小乗の人々は散壊破滅の空として理解しますが、大乗の人々はこれに如来蔵の空性を加え、地上の菩薩や仏陀は色を四大種子の働きそのものとして観じ、さらに空無であると見ます。色法そのものが空相であるというこの深遠な道理は、地前の菩薩には決して観察することはできず、その実際の内実を真に理解することは不可能です。諸仏は色を直ちにその根源まで見通されます。新たに悟りを開いた菩薩は、色を空性である第八識から生じたものとしてのみ理解し、観察力は微弱で、理解の要素が多分に含まれます。
しかし、無常・苦・空・非我とは、主に小乗の散滅壊損の法を指します。先に説かれた色の無常によって、色が苦であることを証知し、さらに色が散壊して久しく留まらないことを証知します。最後には、色が無始劫以来私たちが考えてきた不散滅の自我を代表する主体ではないことを証知するに至ります。
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