いかにして識が即ち我であると見るか?六識身――眼識、耳・鼻・舌・身・意識身を指す。この六識身の一つ一つを見て我と認めることを、識即ち我と名付ける。いかにして識が我と異なると見るか?色を見て我とし、識を我の所有と見、受・想・行を見て我とし、識を我の所有と見る。これを識異我と名付ける。
まず「我」という概念を明らかにしてこそ、五蘊十八界の無我を如実に観行できる。我とは何かを知らなければ、どうして我見を観行して断ずることができようか。例えれば、部隊が装備を整えて敵を討伐しようとする時、敵が誰でどこにいるかを知らなければ、どうして出撃して敵を滅ぼせようか。
「我とは誰か」を明らかにしてこそ、この我に我見を断じさせることができる。我とは誰かを知らずして、どうしてその我に我見を断じさせることができようか。例えれば蛇を打とうとして、蛇の急所がどこにあるかを知らなければ、どうして蛇を打ち殺せようか。
上記の文を解釈する。
釈:いかにして識を我と見るか。識とは六識身――眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識身を指す。この六識身を我と見るのは誰か。もちろん第七識である意根であり、意根が六識身を我(自己)と見做しているのである。
仏はこの六識身について、六識身を我(自己)と見、六識身を我(自己)と認める。この知見を持つものが意根であり、これを識即ち我(自己)と称する。
六識身が我(自己)と異なると見るのはどういうことか。即ち意根が色蘊を我(意根)と見做し、識蘊を我(意根)の所有と認める。あるいは受想行蘊を我(意根)と見做し、識蘊を我(意根)の所有と認める。これを識蘊我と異なると称する。
仏はこの段落において、まさに我とは意根であり、意根こそが所謂る我であると説いている。意根が色受想行識を自己と見做し、あるいは自己の所有する機能作用と見做している。ならば我見を断ずるとは、この所謂る意根たる我に我見を断じさせ、意根がもはや色受想行識を我及び我の所有と見做さなくなることによって成る。
ここに見えるように、仏が阿含経を説く際、意根に言及していないのではなく、意根を我と説いていないのでもない。初めから終わりまで、仏は意根に我見を断じさせ、色受想行識を我と見做す我見を断除せしめんとされたのである。
1
+1