涅槃においては六識が滅するのみならず、主に意根の滅がある。無想定においては六識は滅するが、意根は残り、五遍行心所法も運行しており、有心の状態に属する。滅尽定においては六識が滅し、意根は残るが、五遍行心所法の受想機能が滅し、半有心の状態となる。全く無心となれば涅槃に入る。
六識の滅には暫時滅と永久滅がある。無想定と滅尽定における六識の暫時滅は、意根が暫時的に境界に攀縁しないためである。しかし意根は五蘊世間を放棄しておらず、再び六識を生起させて定から出る。睡眠時における六識の滅は、意根が色身の休息を必要とするため暫時的であり、意根心が滅びなければ六識を生起させて目覚める。昏迷時は色身に障害が生じ、勝義根が六塵を正常に受容できず、六識が了別を続けられないが、意根はなお六識の機能と色身の機能を保持しようとする。色身の障害が消滅すれば、意根は再び六識を生起させる。死に際しては四大が分離し、六塵境界が勝義根に伝わらず、六識の機能作用を維持できなくなるため、意根は止む無く五蘊身を離れ、中陰身を生じて六識の機能作用を継続する。これは意根の受動的行為である。
涅槃状態の出現は、意根に一切の心行が無くなり、六識が運行を続けられず滅し、意根自らも滅するためである。これは意根の能動的行為である。
六識は境界風の如く、阿頼耶識の大海に七識の波浪を起こす。意識が分別する境界が意根に伝わると、意根は熏染を受け、それによって心念を起こし、心海に波濤が湧き立って平静でなくなる。故に意識が分別を止めれば、意根は清浄となり、次第に涅槃へと趣向する。
衆生が極楽世界に往生するのもこの理による。極楽世界において意識が長期にわたり娑婆世界のような染汚境界に接触しなければ、心は清浄となり、意根を悪法で熏染することがなくなる。意識が清浄になれば、意根もまた清浄となる。意根が清浄になれば極楽世界と相応じ、蓮華から出て仏に謁し法を聞き、無生を悟るのである。
4
+1