問:意識が五蘊の無我を観行する際、論理的思考や分析推論の作用がありますが、これは現量に当たりますか。
答:意識が観行する際には、比量や非量だけでなく現量も存在し、この三量は全て意識の智慧を表します。五蘊を観行する意識の論理的思考分析推論にも三量が含まれ、智慧が高まるほど現量が増し、観察される事実が多くなり、証拠が充実し、理由が十分であればあるほど、意根を熏染させ、実証に近づきます。
意識が証拠を探求すればするほど現量は良好となります。なぜなら意識は意根のために証拠を収集するものであり、現量の証拠は説得力があり、意根が受け入れるに足る十分な理由を備えているからです。非量の想像や幻想は証拠不足のため、意根は受け入れられません。このような場合、意根の思量を導き推進する作用が生じず、実証に至ることはできません。
現量とは必ずしも自らの体験を指すものではありません。他者に起こった事象も、全ての衆生に生じる事象も、現量観察の対象となります。事実に合致し、道理が通じ、論理が厳密であれば十分です。ただし地水火風の四大種子のような問題は、智慧が不足しているため現量観ができず、熏習として非量に分類されますが、諸仏にとっては現量となります。我々各人の意識の智慧には限界があるため、極めて多くの事実と真理を現量観察できず、浅い真理しか実証できないのです。
ある人々にとって観行困難な法も、他の者には容易である場合があります。この差異は意識と意根の智慧の差によるものです。四大種子については諸仏は即座に現量観察できますが、我々には不可能で、理に沿って思考推論し、熏習の作用を起こすのみです。無始劫より、衆生は生死輪廻の中で無量の生死の苦を受けてきましたが、これを現量観察できず、感知できず、経験から教訓を得ることができないため、生死輪廻が絶えず、苦受が続くのです。
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