衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年02月20日    木曜日     第1 回の開示 合計2144回の開示

識の智慧が意根の智慧に勝る理由

意識の所縁となる法は、独影境の法塵と五塵と同時に現れる法塵を含む。独頭意識による追憶・妄想・幻想などが縁とするものはすべて独影境であり、これらが虚妄の影であると観察判断しやすい。眼が色を見る際、意識が法塵を観察する時は、影であると断定しにくい。

一心に観行を続けることで禅定が現前すると、意根は身体にも法にも固執しなくなり、身体に軽安と快適さなどの禅定の境界が生じる。心が比較的集中して禅定があれば、意識が思惟観察する法義は容易に意根に受け入れられ、意根が受け入れることで境界の変化が生じ、様々な禅定の境界が現れる。

日々このように観行を続けることは、意識と意根双方に智慧を向上させ、当然禅定も増強される。観行を始めた当初は非量・比量の要素が多く、最終的には現量の要素が次第に増え、心は五蘊世間の虚妄不実をますます認められるようになる。観行には一定の過程があり、定力が増すと同時に観行の智慧も増し、智慧が増すことで禅定がさらに強化される。観行によって現れた法を意識が確認するのは容易だが、意根は容易ではない。意識だけが確認しても身心に変化はなく、意根がどの程度確認するかによって、それ相応の転変が生じる。

境界に遭遇した時、なぜ境界に引きずられ、転じられるのか。それは意識が観行した境界が、まだ意根の認可を得ておらず、意根の心に深く入っていないため、決断を迫られる場面で意根の選択が従来の習性と同じく、境界を真実と見做してしまうからである。

観行を始めた当初は、観行の深さ・広さが不十分で範囲が狭く、各法を連関させることができないため、意根を効果的に薫染し導くことができない。もし意根の所縁が少なく、心中の無明が深重でなく、無始劫以来無量の生死業障を積んでいなければ、意根は意識のように智慧を持ち、証拠不足でも理に適った結論を判定し真理を証得できよう。しかし意根はそうではないため、我々の修行実証がかくも困難なのである。

意識の智慧が意根をはるかに凌ぐ第一の理由は、意識の所縁が意根よりはるかに少なく、主導識ではないため、一切の事柄に主導権を持たず、かくも多くの執着がなく、問題に集中して思考し、境界を了別するのが比較的明瞭だからである。意根の所縁・執着・了別する事柄の多さは如何に。極めて多く、如来蔵が生じる法は全て意根が縁することができ、古今一切の自己に関わる事柄、身根の刹那毎の微細な変化も意根は了別し認知する。自己に関わらぬことでも、攀縁の習気により縁を攀じ執着する。

意識の智慧が意根を超える第二の理由は、意識が一世のみ存在し、環境の薫習が極めて微弱で、意根のような多くの煩悩・無明がなく、かくも多くの業障もなく、覆障が少ないため、意識は意根より聡明なのである。

——生如法師の開示
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