衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月05日    月曜日     第3 回の開示 合計985回の開示

六転はなぜ染浄依と呼ばれるのか

十二因縁法:無明より行が縁起し、行より識が縁起するなど。ここでいう「行」とは身行・口行・意行を指し、「識」は六識を指します。すなわち無明は必ず意根の無明を指すのです。意根に無明があるが故に、身口意の行が絶えず生起し運行し、六識は身口意の行を作らざるを得ず、それ故に滅することができません。

ここでいう無明にはどのような内容が含まれるのでしょうか。全ての無明を含むに違いありません。貪・瞋・癡・慢・疑・邪見という六つの根本煩悩、および二十の随煩悩です。意根はこれらの無明煩悩によって、絶えず身口意の行を生起させ現行させ、六識に絶えず造作させます。それ故に六識は清浄になることができず、無為を得ず、滅することができず、造作した種子は必ず残り、後世の有を生じさせるのです。

「六転じて染浄依と称される」もこの意です。意根は六識の清浄と染汚の依止識であり、六識は意根の清浄性と染汚性に依って初めて自らの清浄性と染汚性を持つことができます。意根が清浄であれば六識も清浄となり、意根が染汚であれば六識も染汚となります。故に六識の煩悩は意根に由来し、六識の清浄も意根に由来するのです。よって意根の問題を解決すれば六識の問題も解決され、全ての問題が解決されます。つまり意根の貪瞋痴煩悩及び全ての煩悩を断じれば、六識の貪瞋痴煩悩及び全ての煩悩も断じられ、意根に煩悩がなければ六識にも煩悩はありません。意根の無明を断じれば六識の無明も断じられるのです。意根の煩悩心所法は決して意識の煩悩心所法より少なくなく、意識の煩悩心所法は決して意根の煩悩心所法より多くはありません。意根の善心所法は意識の善心所法より少なくなく、意識の善心所法は意根の善心所法より多くはないのです。そうでなければ意根は六識の染浄依とは言えません。

一切の法は全て意根によって生起し運行するもので、例外も特殊な情況もありません。意根は三界世間の一切の法を生じさせる動力と根本原因です。一旦意根の無明が滅尽し、なおかつ願力がなければ、五蘊世間はたちまち滅します。意根に無明煩悩がなければ、六識が無明煩悩業を作る理由はなく、自在にもできず、主導権も持てないのです。

法と法は全て相通じており、独立して存在する法も、他の法に逆らう法もありません。ただ個人が修行する際に、これらの法を究竟しているかどうかです。究竟していない時は、この法はこの法、あの法はあの法で、互いに干渉しません。究竟した時は、法と法が円融し、互いに補い助け合い、緊密に連関します。仏法を究竟した時は、いかなる側面からでもこの法を証明でき、あの法も証明でき、より多くの事実と真実を発見し、智慧が円融無礙となるのです。

——生如法師の開示
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