七覚分の最初は念覚分であり、内なる念覚分は意根の念、外なる念覚分は意識の念である。意根に念覚分が存在しない時、念覚分は成就せず、択法覚分は現前できない。故に意根には必ず念心所が存在し、小乗経典にも既に意根の念心所が暗示されておる。ましてや大乗経典においてはなおさらである。ただ衆生の無明が深重なるが故に、仏経を理解できず、弁別することが叶わぬのみ。
世尊が七覚分について説かれたところによれば、意根には択法覚分、精進覚分(真の精進)、喜覚分(意根は単に捨受のみにあらず)、軽安覚分、定覚分(定と相応す)、捨覚分が具わる。その後、心行が八正道にかなって初めて小乗の証果の条件を具足し、我見を断じて初果を証することができる。然らずんば全ては仮の果、虚構の果に過ぎぬ。条件が具わらず、因縁が整わぬまま強引に導けば、ただ仮の果を得るに止まろう。
七覚分の中の択法覚分は、この境地に至れば弁別力が生じる。しかし自己の現前の水準をあまりに超越する時は、再び択法能力を失う故、更に修行を続けるべきである。択法覚分は不断に増進すべきもので、円満具足するに至り、即時に一切法を疑いなく正しく択び取ることが可能となるのである。
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