出体とは、別の事物が現れることを生と称しますが、一切の法は如来蔵の外に出るものなく、全て如来蔵の中に在ります。故に一切は生じず、生じないが故に滅することもありません。一切の法は本来如来蔵にして、不生不滅であります。さればこそ、一切の法は空にして自性無しと説かれるのです。我々が刻々に忙殺されていることに、何の意味があるのでしょうか。
この理を忍可し認めれば、無生忍と無生法忍を得ます。意識で忍ぶことは容易ですが、肝要は意根にあります。意根がもし忍可できれば即ち実証となり、完全徹底した実証は即ち成仏であります。思い巡らすは容易ですが、実践には三大阿僧祇劫を要し、実に容易ならざるものなのです。
両脚を長く伸ばして臥し、事事に心を留めず。何故かくも悠々たるのか。一切の法は我と関わり無く、我というものも存在せず、万法安閑にして我もまた安閑。世の中に何を騒ぎ立てる必要がありましょうか。
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