外縁を息(や)み内心喘(あえ)がず、心をして牆壁(しょうへき)の如くならしめば、道に入ることを得。これは達磨大師が説かれた言葉である。この言葉には二通りの解釈がある。第一は修行中の禅定の境地を指し、第二は第一義諦を暗示している。第一義諦より言えば、真如の理体たる如来蔵には外も内もなく、外縁に依らず、いかなる法にも攀縁(はんえん)せず、一切の塵境を了別せず、一切の境界の善悪是非を知ることなし。故に自心に思慮なく、思想なく、知見なく、見解なし。これによりて、一切の外法は心に入ること能わず、心内より思想・見解を出さず、如来蔵の心は恰も牆壁の如く、内外通ぜず、また内外もなし。かくの如く如来蔵の体性を了知した後、これを参究しこれを証取すれば、ここより後は道中に入る。これ理修による入道なり。
他方より言えば、事修による入道なり。事修とは禅定を修した後、定中において禅を参じ如来蔵を証悟するをいう。この定は色界初禅定たり得、また初禅以前の欲界未到地定たり得。この定に達する時、心念集中し、禅を参じ、話頭を参ずることを得、参通ずれば開悟す。具体的に言えば、定を修して外界の色塵・声塵・香塵・味塵・触塵に攀縁せず、心もまた他の法塵に攀縁せず、妄想を打たず、追憶せず、雑乱に思惟せず。心を牆壁の如く修し、貪瞋痴の煩悩も入らず、無関係の六塵も入らず、一法に専注し、真如の法、如来蔵の法を思惟参究し、一つの公案あるいは一つの話頭を参ず。因縁時節具足する時、答えを見出し、法理を明得し、真如心体を証得す。
話頭としては「死屍を拖(ひ)くは誰ぞ」「念仏するは誰ぞ」「飯を食うは誰ぞ」「歩むは誰ぞ」などあり得。また『楞伽経』中、仏の説かれる「機関木人の如く、機発すれば相起こる」などの経文を参究すべし。この句は学人が真に悟道したか否か、悟りの正誤を検証し得。もし誤って悟れば、この句の意味を解せず、また菩薩の挙足下足ことごとく道場より来たるという『維摩経』の句も解せず。話頭は数多あり、自らの根基に契合するものを選ぶが最良なり。要するに、この種の定は今の世において修め難し。唐宋の時代には大多数の者この定を得たり、故に悟道速やかなりき。
参禅は必ずしも坐するを要せず、行住坐臥の中にて参ずることを得、時処を選ばず。心念集中し、余念なく、境に触れ縁に遇う時、随時に悟入す。古来より悟道した祖師の大多数は坐中にて悟らず、坐中はまた悟り難し。或る者は人の一言を聞きて悟り、或る者は音声を聞きて悟り、色を見て悟り、香を嗅いで悟る者もあり。皆参禅がある程度に至り、偶然の機縁に触発され悟道せり。多くは師の開示を聞きて悟り、或いは師の拳・棒・喝に接して悟る者もあり、各人の悟縁は異なる如し。参禅もまたある程度修めたる後参ずべく、定力足らざれば強いて参ずる無益なり。定力が欲界未到地定に達し、行住坐臥心乱れず、一境に専注し得る時、参禅の好機なり。この時参禅を始めれば疑情を起こし、疑情解決すれば速やかに明心開悟す。
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