仏道を学び修行することは、実に容易なことではありません。無始以来の無明煩悩業障が極めて深く、我執と法執が甚だしく重いため、これらを解き除くのは至難の業であります。大いなる力、大いなる勇気、大いなる智慧がなければ成し得ず、十方諸仏菩薩の歴劫にわたる加護がなければ成し得ず、護法神の永きにわたる守護がなければ成し得ません。もし「修行は極めて容易で、ある方面で少し行い、わずかに摂取すれば即身成仏し、如来の家に入り、悟りを開くことができる。他の修行は必要なく、体系的に深く修める必要もなく、一歩一歩着実に基礎を固める必要もなく、戒律を守る必要もなく、禅定を修める必要もなく、何の代償も払わず、苦労せず、生活も仏道も楽々と成就できる」と言う者がいれば、その人は何も成就していないと知るべきです。なぜなら、必ずや何の代償も払わず、世間の五欲の束縛から脱しようとせず、貪愛執着が依然として甚だしいからです。
戒律を守ることもできず、禅定も修められず、基礎的な修行さえままならない者が、真に何かを修得したことはありません。故に「一生の修行で成仏できる、即身成仏できる、即生成仏できる、一句の念仏で往生すれば成仏できる、戒定慧において戒も定も要らず般若慧だけでよい、慧があれば直接成仏できる」などという説に警戒を要します。その道を歩んだことのない者は往々にして「道は平坦だ」と言い、実際に歩んでいる者は風景をありのままに知り、人に真実を語るものです。
仏法を極めて簡易に説き、修行を容易に語る者には皆警戒が必要です。経験のない者は想像で容易さを感じます。譬えば夜空に浮かぶ月を見上げ、自分に近く感じ、歩けば月も付いて来て手が届きそうに思うようなものです。しかし雲梯に乗り飛行機で月へ向かう時、どれだけ飛んでも月は依然として遥か遠く、感じた近さは幻想に過ぎず、実態とは大きく隔たっていることを知るのです。
仏道修行も同様で、容易に成仏し悟れると感じても、実際に歩み始めれば無明の業障に引きずられ、一歩一歩が困難を伴います。世俗の荷物を捨て、享楽を捨て、相応の代償を払ってこそ、いくばくかの成就を得られるのです。捨てなければ得ることはできません。真に尊いものは、安易に得られるものではないのです。
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