衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年02月28日    金曜日     第1開示 合計2167開示

学佛修行はそんなに容易なことでしょうか?

仏法を学び修行することは相当に容易ではない。なぜなら無始劫以来の無明煩悩の業障が相当に深重であり、我執・法執が相当に深刻で、それらを解除し破除することは相当に容易ではなく、大いなる力・大いなる勇気・大いなる智慧がなければ為し得ず、十方の諸仏菩薩の歴劫にわたる加持がなければ為し得ず、護法神の長久にわたる護持がなければ為し得ないからである。もし誰かが、修行は非常に容易であり、ある方面で少しばかり行って、少し摂り入れさえすれば、成仏でき、如来の家に入ることができ、あるいは開悟できるのであり、その他のものは修める必要がなく、深く体系的に何かを修める必要もなく、一歩一歩着実に足場を固める必要もなく、持戒する必要もなく、定を修める必要もなく、どんな代価を払う必要もなく、あまり苦労する必要もなく、生活も学仏も楽しく快く成弁できるのだ、と言うならば、私たちはこの人がそもそも何らの成就も得ていないことを知るべきである。なぜなら、その人は間違いなく何らの付出もしたことがなく、世間の五欲の束縛から脱しようとせず、貪愛と執着がまだ非常に深刻だからである。

持戒ができず、禅定ができず、基礎の修行もすべてできず、真に何かを修習したことがなければ、真に何かを得たことも間違いなくない。だからこそ、修行一生で成仏できる、即身成仏、即生成仏、一句の仏号で往生すれば成仏できる、戒定慧のうち戒も定も要らず、般若の慧さえあればよい、慧があれば直接成仏できる、などという説が出てくるのである。これらの説に対して、私たちはすべて警戒しなければならず、騙されてはならない。その道を歩んだことのない人は、往々にしてその道は歩きやすいと言うものであり、本当にその道を歩いている人は、道中の風景を如実に了解し、人に如実の語を語るのである。

仏法を非常に簡単なものと言い、修行を非常に容易なものと言う人に対しては、私たちは皆警戒しなければならない。経験したことのない者は、想像によってすべて容易だと思い込む。例えば、夜に頭上の月を見て、自分にとても近いと感じ、自分がどこへ行っても月がついてくるようで、まるで手を伸ばせば届きそうに感じる。しかし雲の梯子に乗り飛行機で月に向かって飛び立ってみると、どれほど遠くまで飛び出しても、月は自分からやはり同じように遠く、常にそれほど遠いことがわかる。感覚ではとても近いが、感覚はあくまで感覚であり、朦朧として曖昧なものであって、実際と感覚とはあまりにもかけ離れている。

学仏修行も同様である。感覚では容易く成仏でき、証悟できるように思えるが、実際に道につき歩き出した途端、無明業障に牽纏され、どの一歩もそれほど容易には歩めない。私たちは絶えず世俗の中のいくつかの荷物を捨て去り、世俗の中のいくつかの享受を捨て、相応の代価を払わなければ、いくつかの成就を換えて得ることはできず、捨てずには得ることは不可能である。本当に良いものは、安く手に入るものは何もないのである。

——生如法師の開示
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