衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年03月01日    日曜日     第3 回の開示 合計2176回の開示

究竟的な方法であればあるほど修めにくいです

五蘊を観行して我見を断つにあたり、意根は六根の一つであり、その無我性を観行しなければ、我見を断って証果を得ることはできません。釈尊は『楞厳経』において、意根を観行する究竟徹底した方法を説かれましたが、これは極めて困難な修行です。究竟的な方法であればあるほど修め難く、簡便な方法であればあるほど不究竟となります。故に力量ある者は、手軽で迅速な方法に執着せず、世俗的な犠牲を恐れず、最も尊く価値ある果報を求めるべきです。世俗法はいかに優れていても苦悩を伴うものであり、この苦悩を捨てて永遠に消滅しない宝を得るならば、どうして喜んで行わないことがあろうか。今や重大な問題が生じています。意根は五蘊十八界の一つであり、観行の際には意根の虚妄無我性を完璧に観じなければなりません。しかし大多数、いやほとんど全ての修行者が意根を観行できていない現状において、どうして我見を断ずることができるでしょうか。これほど多くの人々が我見を断じたと自称しているが、彼らはいかにして意根の我見を断じたのでしょうか。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

『楞厳経』第三巻 意根と法塵の虚妄

次の記事 次の記事

意根と意識の役割分担

ページのトップへ戻る