仏道の修行をより速く進めたいなら、修行の理路をはっきり理解し、定を修める方法と参禅する方法の違いを見分けた上で、現在の修行の重点を見定めなければならない。そうすれば時間を無駄にせずに済む。
もし前五識と意識の生滅変化を降伏させ、五識・意識に五塵の境界を了別し感受させないようにするなら、それは定を修める方法である。このような修定によって定力が向上した後でも、やはり五識・意識を用いて塵境を観察し、塵境を参究し、塵境と五蘊世間の真実の相を認識して、智慧を獲得しなければならない。このような証悟の智慧があってこそ、生死の苦から解脱でき、修行は目的を達成できるのである。
禅定を修めた後は観行 (vipaśyanā-caryā) をしなければならない。小乗では五蘊十八界の苦・空・無常・無我を観行し、大乗では小乗の観行の基礎の上に、色を見声を聞くのは誰なのか、禅を参じ参究するのは誰なのかを観行する。観行と参禅は必ず塵境に対して観察と注意を向けることになるが、ただ比較的集中していて、注意力を必要のない法へと散らさないだけである。
修行は外道のように一途に定を修めるだけではならない。周囲の一切の法を構わず顧みず、聞きも問いもしないようなやり方では、智慧を開くことはできない。成仏の臨に際して、一つの法でも知らないことがあればそれは愚痴であり、成仏は望みがない。外道は心が静かで、一切の境界に出会っても心を動かさず、八万大劫ものあいだ定に入り、一事も知らず、痴々としている。しかし出定の後には悪業が現前し、直接無間地獄に堕ちる。釈迦仏の師もまさにそうであった。佛陀は成仏の後、彼を度化しようと思っても彼を見つけることさえできず、なんと惜しいことか。世界中の人間が合わさっても、このような外道の心の静かさには及ばないが、しかし何の役に立つだろうか。世間の真実の相を明らかにできず、解脱の智慧を獲得できなければ、生死輪回の中で足掻き続けることは免れない。それゆえ、仏道の修行は定と慧をともに顧み、戒定慧を斉しく修めてこそ、道を誤らないのです。
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