他人を唆して殺生業を造らせることは、自ら殺生業を造るよりも罪業が重い。なぜかと言えば、自ら殺生する場合は自身一人の悪業を造り、衆生と悪縁を結ぶに過ぎない。しかし他人を唆して代わりに殺生させれば、他人が造る殺生業にも自らの分が含まれ、自らの殺意は依然として存在し、更に他人に悪縁を結ばせ、悪業を造らせ、他人を汚染することなく、これは二重の悪業となる。
鶏や鴨に代わって人間が蝗を殺させる場合、蝗が死ぬ原因は人間にあるため、これは人間による殺生に属する。鶏や鴨は単に人間が蝗を殺す道具に過ぎない。同時に鶏や鴨は蝗と悪縁を結び、来世に悪報を受けるが、これも人間が原因である。故に鶏や鴨を派遣して蝗を滅ぼすことは、自ら蝗を滅ぼすよりも悪業が大きい。
しかしこのような大規模な蝗害に遭遇した場合、蝗を滅ぼすべきか否か。もし蝗が人類の生存を脅かすならば、当然滅ぼす必要がある。なぜなら人間の生命は蝗よりも計り知れぬほど尊く、両者を比較すればやはりまず人類の生存を保障すべきである。人間は道器であり、極めて多くの善業を造ることができ、三悪道の衆生に対しても益がある。人が生きている限り、他の問題は全て解決可能である。ただ後世に若干の悪報を受けるに過ぎず、現在蝗に命を奪われるか、或いは災難に囚われるよりは遥かにましである。
全ての衆生は無始劫より造り続けてきた殺業が極めて多く、大小様々で数え切れない。故に全ての衆生の業障は深重であり、悪縁も非常に多い。いかに善良であろうとも、汝を殺そうとする者、罵倒する者、侮辱し陥れる者、誹謗する者、見下す者、汝を良しとせぬ敵対者は数多く存在する。
逆縁と災難に遭遇し、やむを得ず殺生業を造ることは、それ自体が福徳の無い現れであり、業障であり、悪業の果報である。もし業障が無ければ、生存問題を解決するために殺生業を造らざるを得ない状況には遭遇しない。諸仏菩薩は悪業が消滅しているため、このような逆縁を感召せず、やむを得ず殺生業を造ることもない。仮に悪縁に遭遇しても危難を転じて祥瑞とし、劫難を遇って吉祥と成し、自らの無量の功徳をもって敵対者を補い救済するのである。
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