禅定における観行において地水火風を参究すれば、来るところなく、出づるところなく、婉転虚妄にして、小乗の空無の結論を導き出すことができる。それにより水を真実の法と認めず、また我が所有にも属さず、我に非ずと了知する。大乗の観行に至っては、これが如来蔵より出生せることを観行し得るが、これは甚だ困難なる事相なり。理解の面に於いては難からず、小乗の方面より水の空を観行するも、理解し易きことなり。されど解は畢竟解に過ぎず、証と為すべからず。或人は「我は真に地水火風が皆空なる虚妄の無我なることを認可した」と説くも、この確定は尚意識の確定に留まり、意根は未だ確定せず。意根の確定は比較的困難なるが故に、無明深重にして法を真実と認むる習気堅固なるが故に、容易に動揺せしめ難く、長時の熏習を以て初めてその観念を緩和し、或いはその認知を転換せしむるを要す。
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