我見を断つとは、五蘊の不実なる空性と無我性を観行することを指し、身体を何らかの形状に変えることではございません。身体の変化は禅定の力に依るものであり、我見を断たずにただ禅定を修めれば、色身を変容させて身体を欠損せしめ、その後初めて色身の無我を確認できるというものでございます。そもそも身体が麻痺や障害を負った方々が、依然として深く我見に囚われている事実をご覧なさいませ。もし色身を観行によって黄金に変じ得たとしても、かえって我見は一層深まることでありましょう。肝要は認識の転換にあり、現量をもって色身が仮の存在・空・不実なることを体得し、思想を改めることであり、身体を変容させる必要はございません。障害者を観想する必要はなく、万一禅定力が増大して身体に実際の障害が生じたなら、まことに不都合ではございませんか。ただ身体が諸要素の組み合わせであることを観じれば足りるのでございます。
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