衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年03月07日    土曜日     第2 回の開示 合計2192回の開示

修行者の習慣と世俗の習気への反抗

「道の尊ぶところは俗の弊うところ、俗の貴ぶところは道の避けるところ」という言葉があります。修道とはまさに世俗に逆らう行為であり、世俗に反するからこそ世俗の桎梏を突破し解脱を得られるのです。ひたすら順応するのは修道ではなく、世俗と変わらないため、俗世を離れることはできません。

修道者は長劫にわたる修行を経て、世俗人とは異なる習性を身につけます。例えば倹約、精進、身体を惜しまぬこと、飲食や睡眠・享楽を貪らないことなど、その多くが世俗人と逆の行いです。世俗人から見れば奇異に映り、慣れずに非難し、修正したがるのも無理はありません。

修道者の生活に慣れればその習性も不思議ではなくなり、逆に世俗人の貪欲な習性が奇怪に感じられるようになります。世俗に逆らうことが正常であり、世俗に順うことこそ異常なのです。今改めて考えてみましょう。いったいどちらが正常で異常か。何をもって正常とするのでしょうか。

世俗の生活に慣れた者は、何事も無意識に世俗法に順じています。これはまだ反照能力が修得できていない段階です。世俗人が貪れば自分も貪りながらその貪りに気付かず、世俗人が執着すれば自分も執着しながらその執着を知らず、世俗人が享楽を好めば自分も好みながらそれを当然と思う。これこそ異常なのです。世俗法に過度に順応し、少しも違和感を覚えず全てが自然に思えるなら、その人は修行から程遠いと言えます。修行者に接して世俗的規範に合わないと感じ、人情味が無いと思い、むしろ修行者に世俗の習性を求めようとするなら、その人は修道の門前さえ見えていないのです。修行に少しでも道が開ければ、世俗法の不自然さを感じ始め、違和感を覚えるようになります。これがまさに覚りの端緒なのです。

「衣帯緩く解けて人やつれる」とは、古来より禅修行者を形容した言葉です。真に修行に励めば、身体に影響が及ぶのは必定。飲食や休息を減らし、徹夜して道を究めます。こうして禅の功夫が連続し、急速に進展し、やがて明心見性の時を迎えるのです。現代人は皆自らの身体を惜しみ、苦行を厭いますが、それでは心が苦しむのみ。しかも生生世世にわたる苦しみから解脱できず、言葉に尽くせぬ煩悩の海を漂うことになります。

——生如法師の開示
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