原文:阿難よ。見覚には知無し。色空に因りて有り。汝が今、祇陀林に在るが如し。朝は明らかに夕は昏し。中宵に居るを設けば、白月は則ち光り、黒月は便ち暗し。則ち明暗等は、見に因りて分析す。此の見は復た、明暗の相及び太虚空と同一体なるか、非一体なるか。或いは同なるも非なり、或いは異なるも非なるか。
釈:阿難よ、見と覚そのものに知性はなく、色と空の二塵によって初めて見覚が生ずる。例えば汝が今祇陀林におり、朝は明るく夕は暗い。夜半におれば、白月(十五夜前)には月光が輝き、黒月(十五夜後)には暗くなる。これらの明暗の相は、見覚性の分析によって現れる。この明暗を見る「見」は、明暗の相や太虚空と一体なのか別なのか。あるいは同じでもあり違ってもいるのか、異なってもいないのか。
原文:阿難よ。此の見が若し復た明と暗及び虚空と元々一体ならば、則ち明と暗は二体相亡ぶ。暗時には明無く、明時には暗無し。若し暗と一ならば、明に至れば見亡ぶ。必ず明に一ならば、暗時には当に滅すべし。滅すれば如何にして明を見、暗を見んや。若し明暗殊なりとせば、見に生滅無し。一なること如何にして成らん。
釈:阿難よ、この見が明暗及び虚空と一体であるなら、明暗二相は同時に存在し得ない。暗が現れれば明はなく、明が現れれば暗はない。見が暗と一体なら、明が現れれば見は消滅し、明を見られなくなる。見が明と一体なら、暗が来れば見は滅する。見が滅すれば如何に暗を見られようか。もし明暗が別物なら、見性に生滅が無いのに、三者が如何にして一体と言えよう。
原文:若し此の見精が明暗と一体ならざるならば、汝明暗及び虚空を離れ、見元を分析して如何なる形相を作らん。明を離れ暗を離れ、虚空を離るれば、是の見元は亀毛兎角に同じ。明暗虚空の三事俱に異なり、何れの相に依って見を立てん。明暗相背く、如何にして或いは同ならん。三を離れて元より無し、如何にして或いは異ならん。空を分ち見を分つに本より辺畔無し、如何にして同ならざらん。暗を見明を見るに、性は遷改せず、如何にして異ならざらん。
釈:もしこの見精が明暗と別物なら、明暗や虚空を離れて見精の本質を分析すれば、どんな形があるか。明暗虚空を離れた見精は元々亀の毛や兎の角の如く存在しない。明暗虚空の三者が全て異なるなら、どの相を以て見精を確立するか。明暗は相反するのにどうして同じと言えよう。三者を離れれば元々見精は無いのに、どうして別と言えよう。虚空と見を分けても境界が無いのに、どうして同じでないと言えよう。明暗を見る見性は不変なのに、どうして別でないと言えよう。
原文:汝更に微細に審詳し、審諦に観よ。明は太陽より生じ、暗は黒月に随い、通は虚空に属し、塞ぐは大地に帰す。是の如き見精は何に因りて出ずるか。見覚は空頑にして和せず合わず、見精が無から自ずと出づるべきに非ず。若し見聞知の性が円周遍く、本より動揺せざるならば、当に知るべし、辺際無き動かざる虚空及び其の動揺する地水火風、皆な六大と名づけ、性真円融にして悉く如来蔵なり、本より生滅無し。
釈:更に細かく観察せよ。光明は太陽から、暗黒は黒月に従い、通じるは虚空に属し、塞がるは大地による。この見精はどこから生じたか。見覚は無形で虚空は頑冥、和合せず、見精が無から生じるはずがない。もし見聞覚知の性が円満に遍在し本来不変なら、無辺不動の虚空と動く地水火風は六大であり、真如円融で皆如来蔵に他ならず、本来生滅が無い。
原文:阿難よ。汝が性は沈淪し、汝の見聞覚知が本より如来蔵なることを悟らず。汝当に此の見聞覚知が生滅するか、同異あるか、非生滅か、非同異かを観るべし。汝曾て知らず、如来蔵中に於いて性見は覚明なり、覚精は明見なり、清浄本然にして法界に周遍し、衆生の心に随い応じて知る量に応ず。一つの見根の如く、見は法界に周遍す。聴嗅嘗触、覚触覚知、妙徳瑩然として法界に遍満し、十虚を円満す。豈に方所あらんや。業に循って現れ、世間は無知にして因緣及び自然性と惑う。皆な識心の分別計度なり。但だ言説有るも、実義無きこと悉く然り。
釈:阿難よ、汝の心は迷い、見聞覚知が本来如来蔵であると悟っていない。見聞覚知が生滅するか、現象と同異あるか、不生滅か、同異無きかを観察せよ。汝は知らない、如来蔵において見性は真覚の明、覚精は清浄な見性で、本来清浄で法界に遍満し、衆生の心量に応じて現れる。例えば一つの見根が法界を見る如く、聴嗅嘗触覚知の根も、妙なる徳清浄に法界に満ち、十方を円満する。方角などあるはずがない。業に従って現れ、世間は無知で因縁や自然と誤解する。これらは全て識心の分別妄想であり、言葉だけのもので真実の義は無い。
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