原文:阿難よ、例えば人が両手の指で急いで耳を塞ぐと、耳根が労する故に頭中に音が生ずる。耳と労とが共に菩提であり、凝視して現れる労相である。動静二種の妄塵に因り、聞く作用が中に発してこの塵象を吸収し、これを聞性と名付ける。この聞性は動静の二塵を離れ、畢竟して実体無し。
釈:阿難よ、人が両手の指で強く耳を塞げば、耳根が触れる労により頭中に響きが生じる。耳根と指の触れる労触の相は、全て菩提心の現じた虚妄の世俗相である。耳根は動と静という二つの虚妄の塵境を縁とし、指と耳根の触れ合う労触の中から聞性が生じ、この聞性が動静の相を吸収して現れる故に、これを聞性と称する。この聞性は動静の二塵を離れれば、畢竟自体の本性を持たない。即ち動静がなければ聞性も存在せず、塵を離れて識も聞も無いのである。
原文:かくの如く阿難よ、当に知るべし。この聞性は動静より来たらず、根より出でず、空より生ぜず。何となれば、もし静より来るならば、動の生ずる時即ち滅すべき故に、動を聞くことあるべからず。もし動より来るならば、静の生ずる時即ち滅すべき故に、静を覚えること無かるべし。もし根より生ずれば、必ず動静無かるべく、かくの如き聞性の体は本来自性無し。もし空より出ずるならば、聞性あるは即ち虚空に非ず。また空自ら聞くは、何ぞ汝の入るに関わらん。故に当に知るべし、耳入は虚妄にして、本来因緣に非ず、自然性に非ず。
釈:このように阿難よ、この聞性が動静の境から生じず、耳根から発せず、虚空から現れないことを知るべきである。もし静相から生じるなら、動相が現れれば聞性は消滅し、動きを感知できなくなる。もし動相から生じるなら、静相が現れれば聞性は失われ、静寂を覚えることができなくなる。
もし耳根から生じるなら、耳根の属性に従って動静の相を全く持たず、いかなる音も聞こえなくなる。このような聞性は元来自体を持たない。もし虚空から生じるなら、虚空に聞性が具わることになり、もはや虚空とは言えない。さらに虚空自らが聞くのであれば、お前の耳根と何の関係があろうか。よって、耳の感知作用は虚妄であり、元来因縁生でも自然性でもなく、如来蔵の顕現であると言える。
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