阿難よ、譬えば人が、一方の冷たい手でもう一方の熱い手に触れるとき、冷たさの勢いが多ければ熱きものは冷たさに従い、熱き力が勝てば冷たきものは熱さを成す。かくの如く、この合覚の触れは離知を顕わす。勢いに関わるものが成ずれば、労触に因り、身と労を兼ねるは、共に菩提の瞪発せる労相なり。離合二種の妄塵に因り、覚知が其中に発してこの塵象を吸う、これを知觉性と名づく。この知觉の体は、彼の離合・違順二塵を離れて、畢竟無体なり。
阿難よ、まさに知るべし、この覚知性は離合より来たらず、違順に有るのでもなく、根より出ずるのでもなく、また空より生ずるのでもない。何となれば、もし合う時に来るならば、離れる時には既に滅しているはずである。いかにして離れを覚知できようか。違順二相もまた同様である。もし根より出ずるならば、必ず離合・違順の四相なく、すなわち汝が身知は元来自性無きものなり。必ず空より出ずるならば、空自ら覚知す、何ぞ汝の入りに関わらん。故にまさに知るべし、身入は虚妄にして、本来因縁に非ず、自然性に非ざることを。
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