原文:阿難よ。譬えば人が疲労すれば眠り、熟睡すれば目覚めるが如し。塵境を観れば即ち記憶し、記憶を失えば忘却となる。これが即ちその倒錯なり。生住異滅の相、習気を吸収して中に帰し、互いに超越せず。これを意知根と称す。意と労苦とを兼ねるは、同じく菩提の瞪発する労相なり。生滅の二種の妄塵に因り、知覚を集めて中に居らしめ、内塵を吸収せしむ。見聞は逆流し、流れは地に及ばず。これを覚知性と名づく。この覚知性は、彼の覚醒と睡眠、生滅の二塵を離れ、畢竟として実体なし。
釈:阿難よ、譬えば人が疲労困憊すれば眠りに就き、休息を得れば目覚めるが如し。(意根が)塵境に触れれば(意識の)記憶が生じ、記憶が現れなければ忘却と称する。これが即ち意根の住する生住異滅の倒錯相なり。意根がこれらの塵相を自心に吸収し、一つの塵相から次の塵相へと秩序正しく連続するを、意知根と称す。意根と意根が法塵に触れる労相は、共に菩提より生じ現れた労相なり。意根は生滅二種の虚妄なる塵境を縁とし、法塵に触れる中で意識の覚知性を生じ、意根心内の法塵相を吸収し、見性と聞性を生ず。心外に法塵を追い求め、永遠に法塵の来処を知らず、諸法の本源を悟らざるを、覚知性と名づく。この覚知性は睡眠覚醒と生滅の二塵相を離れ、畢竟として自性なきものなり。
意根は六根中の一つなり。法塵との接触する労相は行蘊に属し、皆菩提の顕現する虚妄相なり。身体が疲れれば意根は睡眠を司り、意識は滅す。休息を得れば目覚め、意識は覚知性を現起す。意根が塵境に攀縁すれば、意識は記憶を生じ、記憶現れざれば忘却となり、これを失憶と称す。この意識の覚知性は睡眠覚醒と生滅の二塵相によりて現れ、睡眠中意根が塵相を攀縁せざる時は意識滅し、意根が塵相を攀縁する時は意識現れて目覚む。この中において意根は倒錯し、絶えず塵相に攀縁してこれを真実と為し、意識をして生滅を繰り返し外に向かって一切の法相を覚知せしむ。これらの法相の根源を知らず、もし睡眠覚醒と生滅の二種虚妄塵境なかりせば、即ち意識の覚知性も存在せざるなり。心外に法を求むるは法流に逆らい、心内に尋ね求めれば法流に順い法源を知り、以て悟道するを得ん。
原文:かくの如く阿難よ、当に知るべし。この覚知の根は、覚醒睡眠より来たらず、生滅に有らず。根より出でず、また空より生ぜず。何を以ってかというに、もし覚醒より来たらば、睡眠即ち滅す。何を以ってか睡眠を知らん。必ず生時有らば、滅すれば即ち無に同じ。誰をかして滅を受くらしめん。もし滅より有らば、生即ち滅無し。誰か生ずる者を知らん。もし根より出でば、覚醒睡眠の二相は身に随って開合す。この二体を離るれば、この覚知者は空華の如く、畢竟として自性なし。もし空より生ずれば、自ずから空の知なり。何ぞ汝の入るに関わらん。故に当に知るべし、意入は虚妄にして、本より因緣に非ず、自然性に非ず。
釈:かくの如く阿難よ、汝は当に知るべし。塵境を覚知する根は、睡眠覚醒より生ぜず、生滅の現象より出でず、意根の心より生ぜず、また虚空より生ぜざるなり。何故ならば、この覚知性がもし覚醒時に生ずるならば、睡眠時には覚知消失す。それでは誰が睡眠を知るのか。覚知性がもし睡眠の法塵より出ずるならば、目覚めれば消滅す。それでは誰が目覚めを知るのか。もし覚知性が法生の時に現れれば、法滅すれば覚知性消失す。それでは誰が法滅を覚知するのか。覚知性が法滅より出ずるならば、法生の時には覚知性消失す。それでは誰が法生を知るのか。
もし覚知性が意根より生ずるならば、意根に睡眠覚醒の二法塵なければ、覚知性は意根の属性に随い、必ずや睡眠覚醒を知る能わざるべし。睡眠覚醒は身体の開合に随って現る。開は覚醒、合は睡眠、この二相を離るれば覚知性は虚空華の如く、根本的に存在せず。覚知性がもし虚空より生ずるならば、当然虚空自ら知を有す。何ぞ意根の法塵摂取に関わることあらん。故に当に知るべし、意根の入は虚妄にして、本来因縁より生ぜず、自然にもあらず、如来蔵性なることを。
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