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日常法話

2020年03月16日    月曜日     第3開示 合計2214開示

『楞厳経』第三巻 意入本如来蔵妙真如性

原文:阿难。譬如有人。劳倦则眠。睡熟便寤。览尘斯忆。失忆为忘。是其颠倒。生住异灭。吸习中归。不相踰越。称意知根。兼意与劳。同是菩提。瞪发劳相。因于生灭。二种妄尘。集知居中。吸撮内尘。见闻逆流。流不及地。名觉知性。此觉知性。离彼寤寐。生灭二尘。毕竟无体。

解釈:阿難よ、たとえばある人が、疲労困憊すると眠りにつき、よく眠ると目を覚ます。(意根)が塵境に触れると(意識の)憶念が生じ、憶念が浮かんでこないことを忘れるという。これが意根の住する生住異滅の顛倒相である。意根はこれらの塵相を自心の中に吸い取り、一つの塵相にまた一つの塵相と続き、秩序正しく乱れることがない。これを意知根という。意根と意根が法塵に触れる労触相は、いずれも菩提が生じ発現させた労相である。意根は生滅という二種の虚妄の塵境に依って、法塵との接触の中で意識の覚知性を生じ、意根の心内の法塵相を吸い取り、見性と聞性を生じ、心の外で法塵を追い求め、法塵がどこから来たのかを永遠に知らず、諸法の本源を悟ることができない。これを覚知性という。この覚知性は、睡眠と覚醒、生滅という二種の塵相を離れれば、畢竟して自体性を持たない。

意根は六根の中の一つの根であり、法塵との労触相は行蘊であり、いずれも菩提が顕発した虚妄相である。身体が疲れると、意根は眠りを手配し、意識は滅する。休みが十分になると目を覚まし、意識が現れて覚知性を起こす。意根が塵境に攀縁すると、意識は憶念を起こし、憶念が浮かんでこないことを忘れるといい、失憶という。このような意識の覚知性は、寝ることと目覚めること、生滅という二種の塵相によって現れるものである。眠った後に意根が塵相を揽しないときは意識は滅し、意根が塵相を揽するとき、意識は現れて目を覚ます。その中で意根は顛倒しており、絶えず塵相に攀縁してそれを真実とし、意識をして生滅しながら外に向かって一切の法相を覚知させ、これらの法相の根源を決して覚知しない。もし眠りと目覚め、生滅という二種の虚妄の塵境がなければ、意識の覚知性もまた存在しない。心の外に法を求めることは法流に逆らうことであり、心の内に尋ね求めて法流に順じることによってはじめて法源を知り、それによって悟道するのである。

原文:如是阿难。当知如是。觉知之根。非寤寐来。非生灭有。不于根出。亦非空生。何以故。若从寤来。寐即随灭。将何为寐。必生时有。灭即同无。令谁受灭。若从灭有。生即灭无。谁知生者。若从根出。寤寐二相。随身开合。离斯二体。此觉知者。同于空华。毕竟无性。若从空生。自是空知。何关汝入。是故当知。意入虚妄。本非因缘。非自然性。

解釈:このように、阿難よ、あなたは知るべきである。塵境を覚知する根は、眠りと目覚めから生じたものではなく、生滅の現象から生じたものでもなく、意根の心から生じたものでもなく、また虚空から生じたものでもない。なぜか。この覚知性がもし目覚めているときに生じたものであれば、眠っているときには覚知は消え失せるが、では誰が眠っていることを知るのか。覚知性がもし眠るという法塵から出たものであれば、目覚めたときには消え失せるが、では誰が目覚めたことを知るのか。もし覚知性が法が生じるときに現れるものであれば、法が滅すると覚知性も消え失せるが、では誰が法の滅を感じ取ることができるのか。覚知性がもし法の滅から出たものであれば、法が生じるときに覚知性は消え失せるが、では誰が法の生を知るのか。

もし覚知性が意根から生じたものであれば、意根には眠りと目覚めという二種の法塵がないので、覚知性は意根の属性に従い、必ず眠ることと目覚めることを知らない。眠ることと目覚めることは身体の開合に従って現れるものであり、開くことが目覚め、合することが眠りである。睡眠と目覚めを離れれば、覚知性は虚空の中の花と同じく、根本的に存在しない。覚知性がもし虚空から生じたものであれば、当然ながら虚空自身が知を持つのであって、意根が法塵を摂取することと何の関わりがあろうか。それゆえに知るべきである。意根の入は虚妄であり、根本的に因縁の生じたものではなく、自然に有するものでもなく、如来蔵性なのである。

——生如法師の開示
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万法は本、因縁に非ず、自然性に非ず

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