我々が他者からある事柄を聞く時、即座にそれを知ります。しかし知ったからといって直ちに信じるのではなく、検証し確認を経て初めて信じることができます。ただ単純で智慧の足りない者だけが検証もせず直ちに享受し反応します。この情報を検証する過程は、まさに証悟のプロセスに相当します。最初に他者から話を聞くことは意識の了別に、中間の「知る」は意識の解に、後の検証は意識と意根の参究に、最後の「信」は意識と意根の証得、および意根の信に相当します。その後に行われる奉行は、意根が自らの行動を改めることに相当します。
禅修行の全過程は六文字で要約できます:知・解・参・証・信・行。この六文字は六つの修行段階を表し、意識の信は第一段階と第二段階に相当するため、ここでは省略されています。
多くの人々は意識の知と解を修行の究極と捉え、修行が完成したと錯覚し高慢になります。実際これは始まりに過ぎず、中間段階にも至っていません。ただ意識の知解が正しく理に適って初めて、中間の参究段階に到達できます。ここに見るように、意識の正しい知解も極めて重要であり、容易なことではありません。大多数がこの段階に留まり、乗り越えられず禅参究へ続くことができません。基礎が未完成で、知見が理に適わず確立されていないためです。もしこの段階を究竟と見做すなら、智慧の浅さ故に慢心を起こすのも当然です。
六段階の後の「信」こそ真実の信であり、証信真信と呼ばれます。仰信や迷信ではなく、意識の信はあくまで仰信・迷信・崇信に過ぎず、正信真信や証信ではありません。
正信真信証信の段階に至らぬ者は、信仰する法に対し退転の可能性を常に抱えます。基礎が脆弱で知見が完全に確立せず、法の検証を経ていないためです。根基が浅い者ほど検証に時間を要し、根基優れた者は速やかに検証を成し遂げます。人の修行はまさに一生涯では測れず、必ず前世の基礎を見ねばなりません。前世の修行が優れていればいるほど根性が鋭利で修行は速やかです。意根が信じれば行が生じ、意根が証得して初めて真に信じます。意根が現量を見て初めて証得するのです。なぜ多くの人々は修行しながら退転してしまうのでしょうか。真実の信がなく実証を欠くからです。
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