意根の固着した妄想により、色蘊を我と見なし、真実不可分で不可壊なものと認識するが故に、色蘊は自らの心を厳重に遮蔽し、心の機能は甚だしく拘束され、障礙を突破できず、作用が阻害されるのである。我々が何を自己とし、真実と見做すか、その何物かが即ち我々の重荷となり、解脱を妨げ、大神通を現じ、一切法に円融無礙なることを阻むのである。
実のところ無明と煩悩により、自ら自らを遮蔽している。明らかに仏となり得る身であり、無量の神通力を持つべき存在であるにも拘わらず、何らの制約もなく、しかるに至る所で通達できず、至る所に障縁が存在する。多くの人々が終日煩悩に囚われ、是非の争いを絶やさず、我が正しく彼は誤りと財色名利を争い、権力地位を奪い合い、互いに嫉妬し瞋恚する様は、実に愚痴の極みである。皆至る所で自らに障礙を設け、最終的に苦悩するは己自身なのである。
衆生は煩悩深重なるが故に、集い三人以上となれば必ず是非紛争が生じ、必ず互いに争奪嫉妬する現象が現れ、或いは表立って或いは密かに張り合い、自らを顕示して他を圧倒せんとする。
一つの団体には常に一部が他を圧迫し、分裂後残された者らは再び争奪嫉妬排斥を繰り返し、更に少数が残ればまた紛争続き、遂に一人残るまで静謐を得ぬ。故に私は人群を最も恐れ、煩悩深き者を最も恐れ、是非多く心清浄ならざる者を最も恐れ、是非を煽る者を最も恐れ、瞋恚心強く嫉妬深き者を最も恐れ、また愚痴にて是非弁別せぬ者を最も恐れる。然るに斯かる者らは至る所に満ち、避くるに由なし、これ即ち娑婆世界の衆生相である。
楞厳経は如何に難解なりとも、我らは必ず修学せねばならない。楞厳経存在する限り仏法は滅せず、楞厳呪存在する限り仏法もまた滅せぬ。楞厳経は章節至る所に我らに明心見性を示し、妄を去り真を見させ、煩悩無明業障を消除せしむ。句々は珠玉の如く、段段は黄金珍宝、即ち道を得仏と成る無上の法宝である。
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