花は未成熟の果実であり、結果を結ぶ前の段階であるため、当然ながら果実ほどの栄養価はありません。果実は花の昇華であり結晶であり、栄養価は花より優れています。仏教では往々にして花と果実をもって善悪の業報を喩え分類し、善悪の業報を花報と果報に分けます。花報とは現世で受ける報いを指し、果報は未来世において業縁が成熟して受ける報いを指します。一つの業行に花報があれば必ず果報もあり、花報がなくても果報は存在します。花報が大きければ果報は小さく、花報がなければ果報は最大となります。
報いは酒を醸すが如く、時を経るほど芳醇となり、また銀行預金の如く、時を重ねるほど利息が増え、報いはより豊かになります。善業について言えば、善業をなす者が貧しければ、花報を早急に得んと願い、眼前で享受できることを望みます。福徳が足りぬ故に、急ぎ報いを必要とするのです。ある者は無知故に、あるいは善業を行うに当たって何かを求める心持ちで現前の利益を得ようとするため、花報のみを求めます。そうして花報を得た後、未来世の果報があるとしても、それは極めて微小なものとなるでしょう。
悪業をなす者にとっては、花報が早く大きく現れるほど、果報は遅く小さくなります。もしこの人に良心や道理をわきまえる心があれば、甘んじて花報を受け入れ、悪業の影響を速やかに消滅させ、後世の果報の苦しみを免れようとするでしょう。因果を信じぬ無知の者こそが、あらゆる手段で花報を回避し、僥倖を抱いて悪業を隠蔽しようとするのです。
もちろん善業が極めて大きければ、自然と花報が現れ、人が求めずとも後世の果報も大きくなります。悪業が極めて大きければ同様に花報が現れ、回避することは叶いません。善悪ともに自然に報いがあるもので、時節因縁が具われば必ず顕現するのです。
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