衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年03月27日    金曜日     第1 回の開示 合計2238回の開示

『楞厳経』における五十陰魔の境界

原文:阿難よ、知るべし。汝が道場に坐して、諸々の念を銷融せしむ。その念もし尽きなば、則ち諸々の離念、一切精妙明らかなり。動静移らず、憶忘一つの如し。この処に住して、三摩提に入るべし。明るき目の人、大いなる幽暗の中に処するが如し。精性妙にして浄く、心は未だ光を発せず。これを色陰区宇と名づく。もし目明らかに朗らかなれば、十方洞然と開け、再び幽黯あること無し。名づけて色陰尽くるとなす。この人は則ち劫濁を超越する能く、その由りを観るに、堅固なる妄想を以てその本と為す。

釈:仏は説きたまう、阿難よ、汝は道場に坐して一切の思念を消し去り、念がもし滅尽すれば、無念の識心は周囲の一切法を明らかに覚知し、動静に動ぜず、記憶忘却も一如となる。この境地に安住すれば三昧に入る。譬えば明眼人が一切の境界を見通せるも、大いなる暗闇の中に在るが如く、識精は精妙清浄なりながら心光を発せず。これを色陰の障りと申す。もし突破すれば暗黒は見性の障りとならず。

もし眼光開明して十方世界を朗照すれば、幽暗尽きて一切色法現前す。これを色陰尽と称し、劫濁を超越する所以は、色陰を実体と執する堅固なる妄想を本源と為す故なり。

原文:阿難よ、まさにこの中に在りて妙明を精研せよ。四大織り成さず。須臾の間に身は礙を出づることを得ん。これを精明の前境に流溢すと名づく。これはただ功用の暫く斯くの如きを得るのみ。聖証にあらず。聖心を作さざれば善境界と名づく。もし聖解を作せば即ち群邪を受く。

釈:阿難よ、四大の密接なる結合が解け、瞬時に身が物質的制約を超越するは、識精が境界に流注する暫時の作用に過ぎず、聖者の証得にあらず。生滅の識精を聖心と見做さざれば善き境界なり。もし聖証と錯覚すれば魔境に堕す。

経文は前後照応して解すべく、断章取義すべからず。五十陰魔の章は禅定中の仮相を説く故、究竟の真実と執すべからず。ここに述ぶる色陰突破前の禅定境界は、未だ五陰を超えず。外道も得る所なり。清浄無念もなお意識心の域を出ず。故に仏は再三、聖解を起こさぬよう諭し給う。

経文の晦渉さによる誤解を戒め、一切の境界を虚妄と観ずべし。真如は寂滅無為にして、禅定の有無に染まらず。修行深きほど魔障増す故、楞厳咒を誦し護身とすべし。神通を貪れば魔の掌中に堕す。この経文の護持は正法久住の要なり。

——生如法師の開示
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