衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年03月29日    日曜日     第1 回の開示 合計2241回の開示

開悟とは何でしょうか

多くの人々は禅定の境地を悟りと誤解しております。また、全ての識心を滅し、意根までも滅して作用させないことが真の悟りの境地であると考える者もおります。このような考え方にどのような過失があるか、考えてみましょう。このような「悟り」において、いったい誰が悟るのでしょうか。何を悟るのでしょうか。この境地には人もなく、五陰七識も存在せず、如来蔵のみが残ります。これは明らかに阿羅漢の涅槃境地であり、悟りとは関係がありません。ましてや凡夫が禅定修行によって直接意根を滅し、倶解脱の大阿羅漢となって直ちに無余涅槃に入ることは不可能です。五識を滅することさえ極めて困難であり、意識を滅するのはさらに難しく、ましてや意根を滅することなど到底できません。

ある人々は常に「根塵脱落」を悟りの境地と執着しております。しかし根塵が脱落した時、根も塵も存在せず、根塵が結びつかないならば、当然六識心も生じません。これが悟りであるなら、いったい誰が悟るのでしょうか。虚空を粉砕し、大地を平らげる境地を悟りと見做す人々がおりますが、この時いったい何を悟るのでしょうか。この境地と如来蔵との関係すら理解せず、悟りの境地であることを証明することはできません。人々が仏法を誤解する根本的な原因は、虚妄の法と真実の法を明確に区別できず、福徳と智慧が未だ不足し、煩悩業障が深刻に覆い隠しているため、福徳と智慧の増長を妨げ、真妄の法を真に理解し貫通できないことにあります。

真心と妄心はそれぞれ異なる体性を有します。例えば、覚には真心の覚と妄心の覚があり、平等には真心の平等と妄心の平等があり、清浄には真心の清浄と妄心の清浄があり、離相には真心の離相と妄心の離相があり、有為には真心の有為と妄心の有為があり、無為には真心の無為と妄心の無為があるなど、多くの相違点が存在します。要するに、仏法を学ぶ者たちは真と妄を区別することが非常に困難で、常に混同し誤解を生じがちです。これは菩薩の六波羅蜜の条件が未だ具足せず、具足すれば真妄の体性を弁別する智慧が生じ、悟道が早まるからであります。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

諸法如幻

次の記事 次の記事

見性とは何か

ページのトップへ戻る