また、その禅定中の善男子たちは、色陰が消え、受陰が明らかになるを見る。明悟の中に虚明の性を得る。その中で忽然として永滅に帰向し、因果を撥無してひたすら空に入る。空心が現前し、ついに心に断滅の解を生じる。悟れば咎なし、聖証にあらず。もし聖解となせば、空魔がその心腑に入る。すなわち持戒を謗り、これを小乗と名づける。「菩薩は空を悟る、何の持犯があろうか」と。その人は常に信心檀越に対し、酒を飲み肉を食い、広く淫穢を行じる。魔力の故に、その前人を摂受して疑謗を生ぜしめず。鬼心久しく入り、あるいは屎尿を食い酒肉などと同一視す。一種皆空として仏の律儀を破り、人罪に誤入する。正受を失い、まさに淪墜すべきなり。
釈:もし聖解となせば、空魔がその心腑に入る。すなわち持戒を謗り、これを小乗と名づける。「菩薩は空を悟る、何の持犯があろうか」と。
今この現象が既に発生していることは、魔が常に仏法修行者を窺い、一旦機会を得れば必ず加持することを示している。
多くの者が悟ったと自覚し、三帰五戒や菩薩戒を守る必要はないと言い、それは凡夫の持つ有相の戒めであり菩薩はそのように戒めを守る必要はないと主張する。菩薩は一旦悟れば心は空となり、心中に無相戒を具えるという。しかし真の無相戒は初地に入って初めて一部を守る能力が生じ、八地以上の菩薩心こそ真に無相となり、無功用行をなす。真に我見を断たぬ煩悩具足の凡夫に、何の能力と資格があって無相戒を守れようか。たとえ真に心を明かして悟っても、煩悩を断じなければ無相を成し得ず、無相戒を守ることはできず、有相戒さえも守り難い。
なぜ『楞厳経』が最初に滅ぼされたのか。それは『楞厳経』が至る所で人々に心を明かし証悟させ、生死の大事を解決し、後半では魔の悪行を余すところなく暴露するからである。故に我々は必ず努力して『楞厳経』を学び、魔王に早期に滅ぼされぬよう心がけねばならない。
ある者たちは仏法修行において本当に注意を要する。ひたすら空を説き、何ものの存在も認めず、未だ証得せぬまま、ついに因果を撥無するまでに空じ、勝手気ままに振る舞い、虎狼の如く乱暴に行動し、最後には地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ち、誰が救うことができようか。
多くの者が仏法を二日半学び、わずかに理解しただけで、大声で自己の悟りを証したと宣伝する。何を証したかも知らずに。特に聖人たらんとする者は、完全な凡夫であり、その凡夫相は明白である。このような者に対し、魔王と小鬼は容易に手なずけ、利用して仏法を破壊させ、用済みとなれば三悪道に堕ちて報いを受ける。ある者は網を張って魔を待つが、魔は娑婆世界を離れたことがなく、眼光炯々とこれらの仏法修行者を狙い、隙あらば乗じ、憑依加持して偽りの聖人とし、至る所で経典を説き律儀を破り、仏教を毀損させる。
浅い法を学ぶ者が魔に陥り易く、深い法を学ぶ者が魔に陥り難いというのではない。『楞厳経』で仏が説かれたように、仏法をある程度学び、様々な境界を好み、自ら聖に入り仙となると思い込む者こそ魔に陥り易い。日々悟ったと称する者で、身口意の行いが凡夫にも劣るような者こそ魔に陥り易く、魔に利用され易い。他の者には利用価値がなく、魔が付け入る隙もないのである。
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