仏法を学ぶことは知識の習得や研究ではなく、参究する能力を養い、単に理解を求めるだけでなく実証を求めなければなりません。禅定が不足し、各種の見道の因縁が具わらない状況で、もし利口さだけで如来蔵を探り当て、ほぼ真実に近い結果を得てしまうと、その後参禅修行を続けることが困難になり、悟りを得たと錯覚する危険があります。因縁が具わらない時期には、如来蔵に関する教えは暫く覆い隠され、後日の参禅証悟のための準備がなされるのです。
皆様に研究に没頭して欲しくない理由は、教えが既に明らかになりつつあるからです。聡明な人が更に研究を重ね、近似の結論に達することは実に厄介です。菩薩道の条件が具わる時、禅定の中で参究されるのが適切でしょう。
世間の学問所で優秀な成績を収めた者のうち、社会で棟梁の材となる者が果たして何人いるでしょうか。知識は人を豊かに生き延びさせるだけで、創造力を必ずしも育むものではありません。仏法を実証的に学ぼうとするなら、世俗の学問とは区別すべきです。さもなければ仏法を学ぶことは単なる知識の蓄積に過ぎず、知識は人を解脱させず、ただ実証のみが解脱をもたらすのです。
仏の大弟子である周利槃特伽は四果の大阿羅漢であり、証果以前は愚鈍な者でしたが、証果後も仏法を説くことはできませんでした。しかし彼はまさに俱解脱の大阿羅漢です。我々は彼ほど愚かではないのですから、知識の理解と学習については適度に留めるべきです。
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