大乗経典が仏説であるか否かについて、インターネット上のフォーラムでは常に激しい論争が繰り広げられております。大乗を否定する側は、南伝仏教を学ぶ小乗の人々でございます。彼らは主に阿含経を修学し、戒律の遵守と禅定を兼修しております。しかし大乗が仏の直説であることを信じなければ、当然如来蔵の法も否定することになり、因果と輪廻も間接的に否定することになります。
因果はどこから来るのでしょうか。もちろん如来蔵によって実現されるものでございます。六道輪廻がなぜ現れるのか。それは如来蔵が不滅であり、業種を保持し、意根と共に来世へ赴き、来世の果報身を現起させるからでございます。
大乗が仏説であるか否かは、善根福徳と智慧ある者にとって考証する必要など全くございません。法の正誤は二度読み、思考すれば極めて明らかになるものでございます。どうして考証する必要があろうか。考証に固執する者は、智慧が非常に低く善根福徳のない人々でございます。二千年来、大乗が仏説でなく後人の創作であると証明する結果を考証した者などおりません。後世の者でこれほど勝れた仏法を創作できる者がいれば、その智慧は仏と等しく、実に驚嘆すべきことではございます。
南伝仏教がパーリ語の阿含経を学ぶ者たちは、概して我々漢地の人々より勤勉で真摯な修行をしております。しかし大乗を否定し如来蔵の存在を否定するならば、その善根福徳は極めて低く、如何に修行しても証果を得ることはできません。仏説を信じず、三宝に対する充分な信心がなく、仏への信が足りなければ、三帰五戒も成就せず、証果を得られないのでございます。もし南伝に証果を得た者がおらず、伝承に誤りがあれば、後世の人々、漢地の人々もそれに従って修行しても証果を得られないのでございます。
南伝が戒律と禅定を重んじるとはいえ、大乗を否定するならば、その戒律には欠陥があり、禅定もさほど高くはならないのでございます。さらに大乗を否定すれば諸仏菩薩の加護力を受けられず、個人の力に頼る限り、如何に修行しても成就はあり得ません。仏在世時、外道たちが後に仏陀とその説法を深く信受したのは、三宝への信心があり三帰五戒を成就し、さらに高い禅定を備え、仏陀の説法を聞いて証果、さらには四果を得たからでございます。しかし大乗を否定する小乗の人々は証果を得られないのでございます。
大乗と如来蔵を否定する南伝の人々の智慧は実に拙劣でございます。自らの五陰身の由来を思惟分析すれば、不滅の如来蔵がなければ如何にして生生世世が存在し、生死輪廻があるのか分かるはずでございます。不滅の法がなければ、一生をかけた修行に何の意味がありましょうか。修行の種子はどこに存在するのでしょうか。種子を貯蔵する所がなければ、来世にどうして修行の果報があり得ましょうか。
ある人々は南伝仏教が優れていると思い、それに従って学んでおります。禅定と戒律の面では南伝仏教は確かに優れておりますが、全体的に見れば仏法の中に強力な支柱がなく、実在の法に支えられておらず、空中楼閣の如く修行しても無益でございます。無益であるばかりか、阿頼耶識の心田に断滅空の悪業種子を植え付け、来世に種子が発芽すれば依然として断滅空者となり、三悪道に沈淪して苦しみが尽きることはないのでございます。故に南伝仏教に従って学ぶ者は目を擦り、その弊害と結果を仔細に思惟し、速やかに退いて後世の苦しみを避けるべきでございます。もし大乗法を否定する断滅空の南伝仏教を宣伝し、他者に影響を与えれば、その罪業は極めて大きく、地獄業となる可能性もあり、因果は実に畏るべきものでございます。慎むべきでございます。
彼らが大乗法を見ても、仏法の真実義を解読できず、皆混乱し、仏が何を説いているのか理解できておりません。理解できないが故に否定に次ぐ否定を繰り返し、愚痴で憐れむべき状態は、善根福徳の欠如によるものでございます。彼らは皆自らの禅定が如何に高いかと語り、四禅定を得たと主張する者も少なくありませんが、実は初禅さえ怪しいのでございます。しかし彼らは確かに修行を重んじ、非常に努力しております。男性信者は我々漢地の人々よりはるかに優れ、皆精進しております。我々漢地の男性信者はあまりに懈怠し、供養や追善供養で金銭を得ることしか知らず、修行を理解しておりません。
故に寺院に赴き供養や追善供養を求める者は、出家比丘を害するだけでなく、仏教全体を害するのでございます。出家者に修行がなければ、仏教は滅亡いたします。追善供養の後、彼らがどうして精力と心境を仏法に注ぐことができましょうか。現在の出家者が昔に及ばず、寺院の修行風土が良くないと言われますが、このような結果を招いたのは誰でございましょうか。世俗の風潮と煩悩習気を寺院に持ち込んだのは誰でございましょうか。寺院の修道環境を汚したのは誰でございましょうか。僧侶の修道時間と精力を奪ったのは誰でございましょうか。
南伝仏教の人々が大乗法を理解できないならば、小乗法も完全には理解できず、故に証果を得られないのでございます。小乗法においても世尊は第八識如来蔵について説かれており、ただ表現が比較的晦渋で、直截的ではなかったのでございます。彼らが大乗を否定することは、間接的に小乗をも否定することになり、仏戒も成就せず、解脱の望みはないのでございます。
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