我々が悟りを証得するために必要な定力は、常に持続して保たれているものでしょうか、それとも必要に応じて引き出されるもので、普段は定がなくてもよいのでしょうか。
修行によって得た禅定が堅固であれば、心は常に定の中にありますが、時には強く時には弱くなります。世俗の用事が多いと心が散漫になり、その時は定力が弱まります。もし修行による禅定が不堅固であれば、座禅中は定がありますが、座を離れると散乱して禅定を失います。
悟りの果報と明心に必要な禅定は比較的堅固なものです。このような深い禅定においてこそ、観察と思惟が微細かつ連続的に行え、修行が持続し、観察の智慧が次第に深まります。これはちょうど湯を沸かすようなもので、火が絶えず燃え続けてこそ鍋の水は次第に熱を増し、最終的に沸騰に至ります。もし火が断続的であれば、鍋の水は熱くなったり冷めたりを繰り返し、いつまでも沸騰することはありません。
修行における最低限の禅定とは、観察思惟を行う際に必ず連続的な禅定を保ち、禅定の中で観察思惟を続けることです。これにより思惟観察の持続性と深化が保証され、長時間にわたる観察思惟にも定力が十分に伴います。そうでなければ修行は中断しやすく、思惟が連続せず、我見を断つための観行を完成させることができません。禅定があれば、他の因縁が整った時にいつでも悟りを証得することが可能です。
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