六識論者は五識と第六識のみを認め、第七識と第八識の存在を否定しております。これは本質的に断滅空論に属するものでございます。もし第七識を自己の主体として認めなければ、第七識の主体性を観行することも、六根の一つとしての根性を理解することもできず、如何にして一つの法が根でありながら同時に識でもあるのかを解することができません。この理を解せぬが故に意根の存在を否定すれば、十八界は一界を欠くこととなり、我見を完全に断ずることが叶わず、証果を得ることは不可能でございます。
南伝仏法は六識論に基づいておりますが、仏が説かれた阿含経には第七識と第八識に触れる教えが示されており、「衆生は皆自洲を持ち、法住があり、衆生の依り所がある」と説かれております。これは第八識を指すものであり、また六根の一つとして十八界に属する意根についても説かれております。しかし南伝部派の人々は阿含経の真実義を理解できず、六識のみを解したため、六識論者となったのでございます。もし輪廻の主体となる識を否定するならば、これは法を誹謗することに等しく、法を誹謗することは即ち仏を誹謗することになります。仏法を誹謗する者は証果を得ることができません。
衆生が仏法を誹謗すれば、三帰五戒の成就はおろか、比丘・比丘尼戒も成就せず、菩薩戒に至っては更に成就いたしません。真の菩薩は、仏法誹謗の声を聞けば三百本の矛で心を刺される如き痛みを覚えるもので、如何にして自ら大乗仏法や菩薩蔵を誹謗できましょうか。故に真の菩薩は仏法を誹謗する者や団体と共住共修することを望まず、ましてやその教義を賞賛し広めることなど決して致しません。真の菩薩は常に三宝を護持し、仏教全体の発展趨勢と変動に心を配り、自己と衆生の解脱を願い、個人の利益のみに執着するものではございません。
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