もし福徳を勤修せず、智慧を勤修せねば、信根が具わらず、善根が具わらず、修め修めするうちに魔が身に附くのであるが、その人は魔が附いたと知らない。楞厳経第九巻には多くの魔が附く事例が説かれておるから、自ら多く対照すべきである。魔が附く時は、最初は多くの世俗法の利益を与え、身心を愉悦快楽ならしめ、禅定を得させ、財富を得させ、人の病を退け健康ならしめ、あたかも神通があるかの如く思わせ、自らを偉大だと感じさせるが、実は全て魔力であり、己が道行ではない。魔が利用し終え、利用価値がなくなると、魔心が厭離して汝を捨てる。その時汝は何者か?正体を現し、死後は地獄に堕つ。
仏が説かれた「人身を得る者は爪先の土の如く少なく、人身を得ぬ者は大地の土の如く多い」との御言葉は、まさに真実ではないか。今の衆生を観れば、善根福徳ある者は極めて少ない。たとえ仏法を学ぶ者も、貪瞋痴の煩悩数多く心に附くゆえに、無数の学仏者も命終には依然として三悪道に報いを受ける。真に我見を断じた者のみが三悪道を免れる。しかし我見を真に断ずる者はどれほどいるか?極めて少ない。もし仏法を謗れば、通常の三悪道ではなく、無間地獄道に堕ち、極めて長い年月の苦しみを受け、出期なき所以である。衆生は確かに憐れむべきであるが、その憐れむべき者には必ず憎むべき所あり。
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