眼などの六根はディスプレイであり、ディスプレイを見ている者は眼識などの六識である。ディスプレイは常に開かれているが、人は常に見ているわけではない。見る見ないにかかわらず、ディスプレイの中では人や物事が絶えず再生され、現れ続けている。ディスプレイに何を現すかは如来蔵 (tathāgatagarbha) の決めるところであり、六識が見るか見ないかは意根の決めるところである。チャンネルを変えるかどうかも、意根の決めるところである。何を見て何を見ないかについては、見る者である六識が提案し、意根がそれを採用した後、如来蔵が業種に基づいて決定する。それゆえ、ディスプレイの中の一切の法は、三つの能変 (parināma) 識が和合して働くことによって現されたものである。眼が壊れるのは、ディスプレイのスイッチに問題が起きたのに相当し、スイッチを修理すれば、眼識は再びディスプレイの中の人や物を見ることができる。しかし眼根が壊れても、眼識の見性がないというわけではなく、眼識はやはり暗闇を見ることができる。ディスプレイのブラックアウトもディスプレイの一つの状態であり、見る者はそれを見ることができる。眼が壊れても、眼識は暗闇を見ることができるのである。
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