衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年04月10日    金曜日     第1 回の開示 合計2259回の開示

人体は如来蔵が設計したプログラムである

人体解剖図を観察すれば、人体の動作は筋肉の動きであり、機械的であることがわかります。真実の「我」が動作しているのではありません。人体とは意根の道具であり、超高精密の全自動機械装置に過ぎず、実体のない如来蔵がプログラムしたものです。このように分解組み立て可能なものは、いったい何でしょうか。あなた自身なのでしょうか。これを「我」と見なせるでしょうか。これに執着して多大な代償を払う価値があるでしょうか。たかだか数十年使用するだけで、駄目になればまた新しいものに替えればよいのです。

この神経元システムを見れば、それは単なるプラスマイナスの電線の塊、絡み合った縄の集まりに過ぎません。これが行蘊と識蘊を引き起こし、想蘊と受蘊を作り出しています。これを看破すれば、実は何も存在せず、これらの重荷を取り除けば、軽安自在に解脱し、煩悩も悩みも消えるのです。

これら一切は単に使用すればよく、執着する必要はありません。全身の色身を含め、六識の機能作用は全て固定プログラムによるもので、如来蔵が設計・整備し意根が使用するものです。もし誰かに平手打ちされても、殴られても、それは忘れなさい。計較する必要はありません。本当にあなたを打つことはできないのです。無理難題をふっかけられても、それも忘れなさい。本当にあなたを侵害することはできず、傷つけることもできません。世間はそのままに任せなさい。善悪に拘る必要はなく、実体のないものに真剣になる必要などないのです。あなたが私に怨みを抱き、私が彼と仇を成す。あなたが私を憎み、私が彼を嫌う。これら煩悩は全く道理にかなわず、意味のないことです。微生物同士の争いから国家間の戦争、世界大戦に至るまで、激しく争い合っていますが、全く道理に反しており、結局誰も倒せず、滅ぼせません。生じては滅び、滅びては生じ、実は生も死も存在しないのです。世界で数百万人が亡くなろうと、それは単に絡み合った縄の塊が消滅したに過ぎません。

釈迦仏の親族数百人が琉璃王に殺害された時、阿難は心を失い苦しみましたが、仏陀は平素と変わらぬ平静な心を保ち、怒りも恨みも抱きませんでした。なぜ仏陀はこれほど達観できたのでしょうか。一切の存在に真人真事はなく、幻の如く空であることを悟っていたからです。故に仏陀は解脱し、阿難は解脱できず苦悩したのです。

——生如法師の開示
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