心の震撼が直接に意根に届き、意根は自らの習気を改めざるを得なくなる。意根が現実の現量に触れて初めて震撼を感じるのであり、意識には震撼は生じない。意識は物事を容易に知覚するが、それは比較的表面的なものである。言うところの震動や震撼は、全て意根に向けられたものであり、意根が事実を認識して初めて自らを変容させることができる。
意識が感じる震撼も、主に意根が震撼を受けた結果であり、それによって意根が決断を下す。すなわち自らを改めるか、あるいは特定の法を確認するのである。普段は他人がどれほど脅かしても無意味である。なぜなら意根が震撼を受けていないからだ。しかしある日、意根が事態の深刻さを理解した瞬間、震撼を受け、自らを改めなければならないと決意し、必ず何々せねばならぬと固く心に誓うのである。
いったいどれほどの人々が毎日「無我、無我」と口にしながら、いざ行動となると全て「私、私、私」となるのか。なぜか? それは意根が無我を真に理解していないからである。ある日突然、本当に無我であると確信した時こそ、それが真の震撼と呼ぶべきものだ! その時を境に自らを改め、身心に変化が現れるのである。
(注:仏教用語の統一訳) ・意根:意根(第七末那識を指す) ・現量:現量(直接知覚) ・無我:無我 ・法:法(ダルマ)
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