原文:賢護よ、木製のからくりの如し。一か所に固定され、種々の業を作す。或いは歩行し跳躍し、或いは跳びはねて戯れ舞う。汝の意に於いて如何に思うか。からくりの作る所は、誰の力なるや。賢護、仏に白して言う。智慧狭く浅く、よく決了すること能わず。
釈:仏は説かれた。賢護よ、あたかも木で作られた一つのからくりのように、それを一つの場所に置き、種々の事業を行わせる。例えばロボットや洗濯機の類いで、それにできる範囲のことをさせ、プログラムを設定し、電源を入れると、木人形のからくりやロボットなどは動き始める。実際には木人形やロボットが動いているのではなく、背後で人が操作している結果である。同様に、阿頼耶識は自身のプログラムに従って運転しており、それが動き出すと、衆生の五蘊も動き始める。五蘊はどのように動くのか? 仏はここで明らかにされている。「或いは歩行し跳躍し、或いは跳びはねて戯れ舞う」、これらは全て五蘊のなすことである。
仏は言われた。賢護よ、どう思うか? 木人形のからくりが行う事業は、どのような力で動かされているのか? そのからくりのボタンは誰なのか? もし仏がここでさらに明らかにされれば、私たちが禅を参究する必要はない。例えば洗濯機は、ボタンを押せば動き始める。電灯はスイッチを押せば灯がつく。ロボットはボタンやスイッチを押せば仕事を始める。電気仕掛けの人形はこのボタンを押せば歌い踊り始める。
仏は賢護に問われた:これらのからくりのボタンは誰が押すのか? 賢護菩薩は謙虚に、自身の智慧は狭く浅く、知ることができないと答えた。おそらく賢護菩薩は知らないふりをしたのであり、それは仏に衆生のために説法させ、一つの仏典を展開させるためであったのだろう。
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