衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年04月19日    日曜日     第1開示 合計2281開示

依理想象は実証に等しくない

菩提の意味を総括すれば、成仏の道において具足すべきすべての仏法を指します。その階層は浅いものから深いものへと数多くの段階があり、最初は断我見(ahaṃkāra-mamakāra-parityāga)であり、初果から倶解脱の四果阿羅漢までを含み、次いで大乗の明心によって菩提の根本である如来蔵 (tathāgatagarbha) を証し、仏地の四智円明に至ります。如来蔵を証得すれば菩提を証得したということになりますが、それは菩提の全部を証得したことにはなりません。如来蔵の体性は深広無辺であるため、そのすべてを証得してこそ、阿耨多羅三藐三菩提を証得したことになるのです。したがって、証得はひとつの始まりにすぎず、さらに多くの法を一つ一つ証得してこそ、はじめて菩提は円満されるのです。

もし、ただ如来蔵があらゆるところに関与しており、あらゆるところに如来蔵の姿があり、一切法はすべて如来蔵であり、全体がすなわち真如であると知っているだけであれば、それは書物から得た理論にすぎません。この理論は、自分が実際に証得した後に導き出された結論ではないのであれば、それは学語です。実際に証得していなければ、理解も十分に深いものとは言えず、その然(しから)んとするところを知っているとも言えず、ましてその所以を知ることはできません。それでは生死の問題をどのように解決するのでしょうか。もし眼界に一筋の隙間を開き、さらにその奥を少しでも覗き見ることができれば、真相を少しずつ知ることができるのです。

中には、全体がすなわち真如であるという理論を知った後、小賢しい知恵を働かせ、あれも真如、これも真如、あらゆるところが真如だと想像を膨らませ始め、それから思い込んでこう言う者があります。「私はこれで開悟したのではないか」と。そして人に印可・証明を求めに行くのです。

もし如来蔵がどのように具体的に存在し、どのように顕現しているのかを見ることができれば、それはかなり優れており、真の開悟と言えるでしょう。仏法を学ぶとは、まず断我見(ahaṃkāra-mamakāra-parityāga)をすることです。五蘊無我の道理を徹底的に理解してこそ、その後の明心は難しくはありません。たとえば、誰もが電流が電線の中にあることを知っていても、電流そのものは見えず、その応用を見るだけです。電流が炊飯器にご飯を炊かせ、洗濯機に洗濯をさせ、手が電流に触れて痺れて震えるのも、これらは電流を証得したことにはなりません。洗濯機が服を洗うのを見て電流の存在を知ることは、理論的な知識から理解する部分が多く、電流の具体的な働きをまだ知らないのですから、証得には属しません。

——生如法師の開示
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