答:何も求めない心で、因果の自然な償いを待つのが一番得です。某甲は良いことをしたけれども、報いを考えなかった、これは報いを求めない心で行動したということです。某甲は報いを図らなくても、因果の法則によってやはり自然に報いが生じますが、このときの果報が最も大きいのです。無為の心で善事を行えば、善報は最大になり、有為の心で悪事を行えば、悪報は最大になります。無為の心で善事を行えば善報は最大であり、心が大きければ、報いも大きいのです。如来蔵がなぜこのような規則を持つのかは分かりません。善事の果報を最大化したい人は、この隙間を利用することができます。隙間を利用しようという心があれば、それでも心があり、心があれば心は小さく、無心であれば心は最大です。報いを求め、目的があって善事を行えば心があり、心があれば心は小さい。報いを求めず、個人的な目的も私心もなく善事を行えば、心は大きくなり、心が大きければ果報も大きいのです。
三宝のために善事を行えば、果報は最大です。その中に私心があれば、金銭・名利・地位・権力などのために行ったなら、大きく割り引かれてしまいます。もし強い私心を抱いて善事を行い、三宝を商売の道具にして、三宝がもたらす利益を図ったなら、それは悪事に変わってしまい、悪報を受けることになるかもしれません。
もし煩悩が重すぎて、三宝がもたらす利益を図り、図って果たせずに瞋怨を起こしたなら、地獄の果報になる可能性があります。一切の罪業はすべて煩悩から生じ、一切の煩悩はあの「我」から来るのです。だからこそ、我見を断じてこそ、煩悩は軽微になり、さらには煩悩を滅除して、煩悩を永遠に尽くさせ、解脱を得ることができるのです。世間のどこを見ても、大きくは国家の間、中程度には団体の間、小さくは個人と個人の間に至るまで、衆生の貪瞋痴の煩悩が見られます。煩悩は盛んに燃え上がり、氾濫していて、救い抜くことが非常に難しいと言えます。末世はやはり末世であり、衆生は業が重く、障りが深く、福が薄く、罪業は善業をはるかに上回り、悪報は善報をはるかに上回っています。だから後世には極めて多くの人が三悪道に行って報いを受けることになり、これは避けられないことであり、死や病の苦しみなどはもう些細なことです。
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