「念いが起こることを恐れず、ただ覚りの遅れを恐れる」と申す人々が常におります。しかし如何に覚ろうとも、既に念は生じており、定(じょう)は失われております。その瞬間こそ覚りではなかったのです。後知後覚で羊が逃げた後に囲いを修復する如く、結局羊は既に逃げ去っております。坐禅の際に立派に修行し、清らかで明るい心境にある時、突如として念が起こっても、これを追わずに過ぎ去るに任せ、再び定に入ればよいのであります。もし追い求めれば新たな念が生じ、二つの妄念が現れます。念頭の妄念を覚ることに執着すれば、かえってこれを長引かせ、再びこの念を起こしたことを悔いれば、定を保つことは極めて困難となります。
一切の法(ほう)に執着せず、自然に過ぎ去るに任せればよいのであります。遅かれ早かれ過ぎ去らぬ法も現象も存在せず、生滅を繰り返すもの。生じたものは自然に滅する時を有し、滅する時にはその法は元より何ものでもなく、生じた時も本来何ものでもないのです。心に執着せず清浄であります。万法来たればその来るを観じ、去ればその去るを観じ、自生自滅して戯れさせるが如く、あたかも演劇を観るがごとくでよいのであります。
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