ベーコン曰く「この目で見たものだけが、判断の根拠となる」デカルト曰く「理性による分析を経て初めて、判断は可能である」
ヒューム曰く「肉眼の観察も理性の分析も、真の判断を保証しない」カント曰く「経験と理性を統合する時、初めて判断は成立する」
仏陀曰く「肉眼の観察が錯覚であり、理性の分析が戯論であると悟った時、初めて意味のある『判断』が可能となる」
衆生は無始以来、数え切れぬ人事物理を目撃しながら、いったいどれほどの認識が正しかったでしょうか。もし正しい認識があれば、貪瞋痴の煩悩は生じず、生死の輪廻の苦しみもないはずです。理性分析の能力を備えた者はどれほどいるでしょう。もし分析が正しければ、どうしてなお貪瞋痴の煩悩と生死の苦しみが存在するのでしょうか。
仏は説きたまう「汝の意識を信ずるな。阿羅漢果を証得して初めて、汝の意識は信頼に足る」
しかるに阿羅漢果を得た者でさえ、なお無明の残滓を抱え、完全に自己の意識を信頼することはできません。
無数の人々が自己の意識を信じ続けています。しかしその意識は今日はかく、明日はしかじかと常に変化し、臨終に至るまで正しいことを為し得た例がどれほどあるでしょうか。そのような意識が信頼に足るでしょうか。全く信頼できぬものですが、人は死の瞬間まで自らの意識に固執します。多くの仏法修行者は今日この法門を求め、明日それを否定し、あれこれと移り変わり、老境に至っても満足する法門を見出せず、なお自信過剰であります。真に自信あるならば、一つの道を選んだならば翻す必要はないはずです。五六十歳に至っても修行の道筋を定められぬなら、この生涯に何の望みがありましょうか。
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