衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年04月28日    火曜日     第2 回の開示 合計2307回の開示

修行道場は段階分けすべき

明心開悟した者は極楽世界に上品上生し、蓮華の台に包まれる必要がありません。証果を得た者は中品上生し、これまた蓮華の台に包まれません。しかしながら、証果も明心開悟もない者が極楽世界に往生する際には、必ず何劫もの間蓮華の蕾に包まれる必要があります。これはいかなる理由によるのでしょうか。

この問題を次のように考察すべきです。第一に、極楽世界と娑婆世界の違いは何か。第二に、極楽世界と娑婆世界に住む衆生の違いは何か。そして次に、このような違いがあるならば、第三に、娑婆世界の衆生が極楽世界に自由に往来した場合、どのような結果が生じるかを考える必要があります。

凡夫の煩悩が甚だ重いため、蓮華の蕾に包まれないならば、極楽世界は次第に別の娑婆世界へと変貌してしまうからです。阿弥陀仏がなぜ極楽世界を建立されたのか。なぜこのように極楽世界を設計されたのか。なぜ衆生を選別されるのか。なぜ大慈大悲をもって一切の衆生、三悪道の衆生までも救い入れられないのか。衆生は常に他者からの慈悲を願いますが、真に自らの願いが叶った場合、結果として悪果を招き、かえって慈悲とは程遠い事態となります。衆生が好む慈悲は往々にして災いを生むのです。

証果も明心もない者は、極楽世界を自由に往来できず、十方世界に赴き諸仏を供養することもできません。これはこれらの衆生の煩悩が極楽世界を乱すことを防ぐためです。ここから我々は理解できます。証果と明心を得た者が極楽世界の修行道場を乱さないのは、彼らの煩悩が既に調伏されているためです。断じ尽くされてはいなくとも、現行することはないのです。

ならば娑婆世界で証果と明心を得た者は、必ず煩悩を調伏した者であり、重大な煩悩が現行する者ではなく、他者を煩わすことのない者でなければなりません。もし重大な煩悩が現前する者、あるいは勝手に他者や他処を煩わす者がいるならば、その者は必ず証果も明心も得ておらず、自ら証果や明心を得たと称するのは大いなる誤解です。

よって道場は三六九等に分かれるべきであり、様々なレベルの者を混在させてはなりません。さもなければ道場は混乱し、煩悩が熾盛となり、一切の修行が成就せず、道場はかえって煩悩の発生地となります。六和敬のない道場は必ず混乱します。見解の合わない者は共に集まるべきではなく、修行のレベルが異なる者を決して同居させてはなりません。さもなければ必ず大いなる悪業を造る者が現れるでしょう。

——生如法師の開示
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