盗みは、ほとんどの人が犯すものであり、与えられざるものを取ることが盗みであることを、一般の人は理解していません。私自身も犯しておりますし、明知りながら故意に犯してもいます。以前から余分な物を人に施すことが好きで、布施の習慣があり、家族にも布施によって福を積み、物惜しみの習気を捨てることを願っておりました。他人を変えることはできず、母だけを諭そうとしましたが、彼女はやや吝嗇で私の言うことを聞かず、使わない物がたくさんあっても人に施そうとしません。仕方なく私は彼女が普段使わない物を密かに持ち出して人に施し、そのたびに彼女が物を探しては「盗んで人にやったのだろう」と言うのでした。実は家族の物を密かに取る行為にも因果応報があり、来世の果報はどのようなものなのでしょうか。物を人に施せば千倍の福を得ると言いますが、その福は誰が得るのでしょうか。
もし私が福を得るのであれば、千倍万倍どころの話ではありません。しかし物が私の所有ではない場合、どうして私が福を得られるのでしょうか。布施という行為は私が行ったのですから、当然私が福を得ます。身分が異なれば得る福の量も異なり、発心が違えば福の量も変わります。ただし物は母の所有物ですから、彼女もまた福を得るべきですが、布施の心がなければ得られる福は限られ、私が福を得たことで初めて彼女も福を得られるのです。将来私が福を得る時、その一部を返還する必要があり、私は発心による分の福のみを得ることになります。
肉親同士が互いに負債を負うことにより、この縁によって来世も再び共に過ごすことになり、たとえ借りを返すにしても良い機会です。畢竟、彼らを救済する機会を得られるからです。親族関係は元来計算しきれないもので、誰も清算できません。この債務関係によって生生世世絡み合い、善縁あれば楽しく、悪縁あれば苦しみます。あらゆる人々と善縁を結べば、来世は苦痛なく楽しく過ごせるでしょう。
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