衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年04月29日    水曜日     第2 回の開示 合計2311回の開示

仏法を学ぶ目的

仏法を学ぶ究極の目的は無明の煩悩を断じ尽くすことにあり、煩悩が尽きれば「無学」となり、もはや仏法を学ぶ必要はなくなります。小乗における無学位は四果の大阿羅漢と縁覚辟支仏であり、大乗における無学位は仏世尊であります。小乗の無学は三界の生死を解脱する上で一念の無明を断じ尽くして無学となったものの、未だ一切の無明煩悩を断じ尽くしていないため、依然として有学であります。大乗においては一念の無明のみならず、無始の無明をことごとく断じ尽くして初めて無学となるのです。無明がある限り学び続け、無明が無くなれば学ぶべきものも無く、全てを悟り証得した時、学びは完結します。

小乗の尊者である四果阿羅漢の周利槃陀伽は、前世の業障により四果阿羅漢を証得しながらも説法ができませんでした。しかし一念の無明を断じ尽くし煩悩を滅し、三界を出離して解脱を得た無学の聖者であり、もはや四聖諦の解脱の理を学ぶ必要はありません。一方、大乗の無学である仏世尊は一切の無明を断じ尽くし、全ての仏法を自在に説き示されます。菩薩たちもまた説法をなさいます。菩薩は衆生から離れず、衆生と共にあるが故に必ず説法を行うのです。説法することによって極大の福徳を集積するため、菩薩は阿羅漢よりも説法に長け、より多くの福徳を有します。仏法を学び始めたばかりの菩薩でさえ、たとえ仏法を理解していなくとも説法を行い、その内容が支離滅裂で自らも言葉の意味を把握していない場合さえあります。

仏法を学ぶ目的が明確になった以上、我々が仏道を修するにあたっては仏法の知識をいたずらに誇示してはなりません。知識を学び掌握すること自体が目的ではなく、それは煩悩を断除する手段であります。煩悩が断たれれば一切の知識は用をなさなくなり、衆生を度するための説法以外に用途はなくなります。従って仏道修行の過程において、自らの無明煩悩を観察し、煩悩を調伏し断除することが最も重要であり、仏学知識そのものはさほど重要ではなくなります。我々は本末転倒して自らの煩悩を顧みず、やみくもに知識を求めてはなりません。たとえ五車に及ぶ知識を学び得たとしても、一旦煩悩によって悪業を造作すれば、重ければ無間地獄に堕ち、軽くても畜生道に転落します。仏学知識が自らを救済できるでしょうか?豊かな知識を携えて三悪道に赴く時、もはや誇示する機会や心情などあり得ましょうか。

——生如法師の開示
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