衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年05月02日    土曜日     第1 回の開示 合計2317回の開示

世間の一切の法相とは何か

楞厳経第三巻において、仏は七大種子の本性が円融無礙であり、如来蔵に本具し、不生不滅にして法界に遍満し、湛然常住して業に随って顕現すると説かれます。七大種子が本来如来蔵の性質を具え、如来蔵と同様に不生不滅・不増不減・無垢清浄であり、相互に円融して虚妄の世間を形成するならば、七大種子は如来蔵と同様に不来不去・不空不有・不変不異にして清浄常住、しかして無相であるといえます。では、七大種子によって構成される世間は、いかなる様相、いかなる性質を有するのでしょうか。

七大種子は空ではなく、その機能作用と属性によって万法を形成し、しかも不生不滅なる如来蔵心体中の実有法です。空ではないが相を具えず、世間のいかなる俗相も持たないため、俗人の眼では見ることも覚ることも知ることもできず、これを空と称するも、実は空性であります。

七大種子が無相にして空であり、かつ不生不滅であるならば、如来蔵の中から生じて出ることも、滅して如来蔵に帰ることもありません。七大種子は如来蔵の外に出ることなく世俗の諸法を形成するため、無相の法が有相の法を形成することはなく、世俗の法相も依然として空、つまり無相・空性であります。また如来蔵は無相であるため、その中に有相の法を留めることはできず、一切の七大が顕現して形成する世俗法も必然的に無相でなければ、如来蔵の空相の中に存在し得ないのです。

ではなぜ衆生は有相の世俗法相を見るのでしょうか。例えば衆生が四大色身や七大五陰身を見、甲地から乙地へ移動し、五陰が眼前に躍動し、我・人・物・時間・空間・場所を具足して一切を見るのは何故でしょうか。四大五大は生じたことなく如来蔵から出たこともないのに、なぜ俗相の色身や種々の物相が現れるのでしょう。見大識大も生じず如来蔵の外に出たこともないのに、世俗の心相がなぜ生起し現前するのでしょうか。

色身は仮相妄相であり実在せず、五陰身も仮相妄相で実在しません。甲地乙地は仮相妄相、時空も仮相妄相で実在せず、幻のように見えるものは見ること自体が幻、幻すらも幻であります。

これら一切の法は生じたことがない故に滅もなく、七大種子は如来蔵の外に出たことも滅したこともありません。もし如来蔵の外に法が存在するなら、その法と如来蔵の境界は何か、両者の関係はどうなるのか、説明が困難になります。一切の世俗法が生滅したことがないなら、いったい誰がこれらの法の生滅を見たのでしょう。何をもって見たのか。見る人は生じたのか滅するのか。見る過程と結果に生滅はあるのか。それはいかなる法相なのでしょうか。

如来蔵には五陰身が甲地から乙地へ移動する事象も、入胎出胎離身の現象も、法の生滅も存在しません。一切の事相法相は七識の妄見、虚妄の見によって虚妄法を見ているに過ぎず、実際には何事も起こっておらず、ただ眠りにつくべきであります。もし安らかに眠れぬなら、起きて仏法を学び、実修によって一切法の実相を証し、一切の法相を明らかに見極めるべきです。世間の仮劇には本来人も劇も観客も存在せず、それは夢のようなものでさえありません。夢を見る者も、劇を見る者も、本来存在しないのです。

最終的にこれらの法を真に証得した時、慟哭すべきでしょう。無始劫来、全くの冤枉に苦しみ、空しく無量の業行を造り、種々の執着・妄動・煩悩に囚われ、あれほど心を砕き悩み続けた結果、実は何も存在しなかったのです。なんと憐れなことでしょうか。

——生如法師の開示
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